#2

 コウロ地区、高層タワーマンション〈涅槃〉、最上階のペントハウスにて。


 漆黒と金を基調としたタイルに磨き上げられた鏡。しっかりと磨き上げられた豪奢なシャワールームの床の上で、俺は目を覚ます。出したままのシャワーが衣服を濡らし、不快感に思わず舌打ちを漏らす。中途覚醒だ。


「……これも効かねぇか」


 着衣浴が趣味なわけではない。舌に残る独特な気怠さを水で洗い流し、俺は洗面台の上で何度も嘔吐く。

 ポケットから取り出したスマートフォンが示す時間は深夜3時で、薬が効きはじめてから2時間も経っていない。新しいものを注文しようと、俺は“薬剤師”に電話をかけた。


『……なんだよ、夜中だぞ?』

「24時間キメてるだろ、アンタ」

『バッド入ってんだよ、バカ。……で、今日はなんだ? クスリか? 戸籍を偽装するやり方か? 美味いパンケーキの店か?』

「……新しい睡眠薬と、情報だ。少し調べてほしいことがある」


 “薬剤師”は自らを証明する資格を持っていない。薬の横流しがバレて資格を剥奪された、と本人は言っているが、どこまで信用していいかは謎だ。俺が初めてコンタクトを取った時も、紹介人は〈ヤクザ医師〉と呼んでいたものだ。

 ソイツは常に禁断症状で手を震わせているが、捌いているクスリのバリエーションと“副業”には全幅の信頼を置かれていた。まだ非認可の試薬や、強力な脱法ドラッグ、体内で検出されない未知の毒薬。俺の仕事にとっては、これ以上ないビジネスパートナーだ。


『待ってろ。もうじきドローンが新しい睡眠薬をお前の部屋に届ける。代金はいつも通りキャッシュだ』

「次は強烈なやつを頼む。眠れないんだよ」

『疲労を取るならもっといい奴があるぜ。吸うかい?』

「それキメて笑いながら死んだマフィアの話、知ってんぞ」

『あれは運とパブロ・エスコバルへの信仰が足りなかったんだよ。コカ・エイメン!』

「くだらねぇ……」


 自然に眠れなくなったのはこの仕事を始めてからだろうか。ベッドの上で目を瞑り、意識が落ちるのを待つ。その簡単な動作が、突如として出来なくなった。深い暗闇に襲われるような感覚に陥るのだ。

 異常に死を恐怖し、意識を失うことを過度に恐れる。その病理を死恐怖症タナトフォビアと呼ぶらしい。誰かを始末する人間が、病的に死を怖がっている。皮肉なものだ。


「それと、調べてほしいことがある。項目リストを送ったから、それについての情報を頼む」

『……〈エンリコ・バイオテクニカ〉? お前、今の稼業やめて転職でもすんのか?』

「いや、依頼の件だよ。そこに潜入して、ある機密情報を手に入れる必要があるんだ。偽造IDを用意してくれ」

『任せな……と言いたいところだが、クーガー殿には少し荷が重いかもしれないな。あそこの社員は、100%〈聖教会〉のやつらだ』

「……ファミリア・コーポかよ」


 多様化する信仰に伴い、人は各々の信じるもので結束するようになった。ファミリア・コーポは、そんな社会が生み出したひとつの歪みだ。


『クーガー殿は無信仰者でいらっしゃる。仮に偽造IDで突破したとしても、あいつらのルールに従えるか?』

「やるしかねぇだろ。それが仕事だ」


 ドローンによってペントハウスに届いた睡眠薬を受け取り、機体に紙幣の束を挿入する。本来なら通過トークンや電子決済で行う金銭のやりとりも、俺たちのような汚れた社会の人間には夢のまた夢だ。キャッシュ払いを確認すると、配達ドローンは一目散に飛び去っていく。


「この薬、毒とか盛ってないよな?」

『何回確認すんだよ。それはクソッタレの神に誓って、一切やってない。ビビりすぎなんだよ、お前は』

「悪いな、確認しないと気が済まないんだ」


 毒を確認する俺の呟きに、“薬剤師”は呆れたように笑う。その後、真剣な声色が電話越しに響いた。


『確かに、お前の妙なドライさと慎重さは殺し屋に向いてるよ。だが、自分が死ぬのをそれだけ怖がっておいて、なんで危険な場所に転がり込む? もう、充分カネは稼いでるだろ?』

「足りねぇよ、まだ」


 まだ足りない。来月は郊外の邸宅、再来月は繁華街の狭いアパート。住処を転々としながら、俺は自分なりの“納得”を探し続けている。死にたくない。死にたくはないが、死ぬまでに人生すべてに納得しておきたいのだ。そのために、無数の贅沢を繰り返してきた。

 ふと鏡を見れば、そこには表情だけが険しい一人の男がこちらを見つめている。視線は剣呑で、そのくせ何かを恐れている顔だ。その顔に向かって唾を吐けば、綺麗な鏡は微かに汚れてしまった。


「祈れば楽になると思うか?」

『……は?』

「仮に俺がくたばった後に裁かれたとして、祈ったら俺の罪は赦されるのか? 赦されるわけないだろ。人は死んだら肉と骨だ。だから、俺は死から逃げ続けるしかないんだよ」

『薬、キマってきたか?』

「……そうかもな」


 これは噂だ。あくまでも、ただの噂だ。それでも、そこに縋るのは悪いことだと言えるのか?

 エンリコ・バイオテクニカが秘密裏に行っている研究はふたつ。人造生命ホムンクルスと、不死だ。


「……やってやるよ。潜入!!」

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