第31話
春原の指が、ブラウスのボタンに触れる。一つ一つボタンを外されると、心臓の音が外に飛び出てしまうんじゃないかというくらい、大きくなっていく。
聞こえてないよね、と思いながら、私は彼女の顔を見つめる。
その顔が想像以上に真面目で、思わず笑ってしまう。
そんな顔しながら脱がさなくても、と思う。
「春原、顔真剣すぎ。職人みたい」
「え」
「ブラウス脱がし職人だ。変態」
くすくす笑うと、春原も少し、相好を崩した。
「こういうの、初めてだから。もっと笑いながらやった方がいい?」
「それはそれで、ちょっとキモいよ」
「あ、ひどい。私の笑顔、キモいんだ?」
「嘘だよ。春原の笑顔、好き」
「笑顔だけ?」
今日の春原は、なんだか妙に甘えてくる気がする。私はかぶりを振った。
「ううん。全部好き」
「どことどことどこが?」
最後のボタンを外されて、前がすーすーする。春原はじっと、私の体を見ていた。前は、見たければ見てもいいなんて思っていたけれど。こういうシチュエーションでじっと見られると、恥ずかしい。
あんまり見られていると、溶けてしまいそうだと思う。
「意外と繊細なとことか、優しいとことか、可愛いとことか」
「可愛い? どこが?」
私はそっと彼女の両頬に手を添えて、胸に頭を抱き寄せる。火傷しそうなくらい、彼女の顔は熱くなっている。
ただでさえ彼女は私よりも体温が高いから、大丈夫かなって少し心配になるけれど。
私は彼女を胸から離して、その瞳を見つめた。
揺れる瞳には、単なる動揺だけでなく、私への想いが浮かんでいる。
目に見える恋よりも、深い感情。触れられなくても、確かにそれが、彼女の瞳にはある。
「こうやってされると、照れて真っ赤になっちゃうところ」
「……こんなことされたら、誰だって照れるよ!」
「そうかな。じゃあ、私にもやってみてよ」
「……え」
私は上体を起こして、彼女を見つめた。彼女は視線を右往左往させて、かなり困っている様子だった。
こういうところ、やっぱり可愛いと思う。
「冗談。好きなようにしていいって言ったし、春原の望むままにやりなよ。私、拒まないから」
「……うん」
春原は私のスカートを下ろしてくる。
「蜜柑って、華奢だよね」
「そう? 普通だと思うけど」
「ううん。細くて、折れちゃいそうなくらい。……なのに、今まで一人で頑張ってきたんだよね」
彼女は肩から腕にかけて、何度もキスをしてきて、さらにキスマークを残してくる。キスマークは腕だけにとどまらず、鎖骨やお腹、最後には脚にまでつけられることになった。
でも、キスマークは内出血で、いわば怪我のようなものだ。
だからすぐに消えてしまう。人より怪我の回復が早い私の体に、キスマークは長く残らない。
彼女もそれはわかっているはずなのに、消えるたびに何度も何度も、私の体にキスマークを刻んでいく。
赤さが引いて、元の肌の白さが戻っても、キスマークをつけられたところがずきずき疼く。
だけどそれは、嫌な感じじゃない。
むしろ心地よくて、心がじわじわ温かくなって、胸の内に安堵に似た感情が広がる。
その反面、鼓動は速くなるばかりだから、好きというのはよくわからない。安心するのか、ドキドキするのか。
わかるのは、春原にこうされることが嬉しい、ということだけだ。
「蜜柑がどこにいても、何してても、私のこと忘れないように、いっぱいするから」
宣言はあまりに遅く、でも、耳に響く。
言葉というのは不思議だ。たくさん混ざったらただの音にしか聞こえなくなるのに、こうして静かな部屋で、そっと投げかけられると。
二度と忘れられなくなりそうなくらいの意味をもって、鼓膜を震わせる。
胸の疼きが止まらなくなる。私は春原のことが好きだ。いつからなのか、どうしてなのか、わからないけれど。
とにかく好きで、その笑顔が見たくて、その声が聞きたい。
「蜜柑、好きだよ。好き。大好き」
「……私も、好き。春原のこと、一番好き」
吐息が重なって、感情が混ざる。春原は私に顔を近づけてきて、そっとキスをしてきた。
その柔らかな感触は、春原の生まれつきのものなのか、プレゼントしたリップの影響なのか。わからないけれど、心地よかった。
キスが終わって、視線がぶつかると、どちらからともなく笑う。
「なんか、恥ずいね」
「自分からしてきたのに」
「それはそうだけどさ……。あ、そうだ」
彼女は何かを思いついたような表情で、自分のブラウスのボタンを外していく。以前一緒に風呂に入った時は、肌が白いな、くらいしか思わなかったけれど。
今は違う。
大好きな春原の体だと思うと、見ているだけでドキドキするし、触れたくなる。春原は恥ずかしそうにしながらも、私のことを見つめてきた。
「私じゃ、蜜柑の体に痕は残せなから。……蜜柑が私の体に、いっぱい痕つけて?」
「……いいの?」
「うん。蜜柑のこと、忘れられなくして」
「……わかった」
私は静かに、彼女の肩に噛み付いた。
人にこうして傷をつけるのは、初めてだ。赤い痕は少し痛々しくも見えるが、それが私にしかつけられないものだと思うと、愛おしい。
私は春原の真似をするように、彼女の体にキスマークと歯形をつけていく。
人間の春原は、そう簡単に傷が治らない。だから春原の体には、私の痕が数えきれないくらい残っていた。
それを嬉しく思ってしまうのは、どうかしているかもしれないけれど。
「いっぱいつけたね。……これ全部、ずっと消えなければいいのに」
「消えたらまたつければいいよ」
「……そうだね。じゃあ、今度は蜜柑にもたくさんつけちゃおっかな!」
「……さっきも散々つけてなかった?」
「いいからいいから!」
彼女はそのまま、私を押し倒してくる。
強引だと思うけれど、それも彼女らしくて、嫌いじゃない。私はふっと笑って、彼女に身を委ねた。
すっかり日が暮れた街を、二人で歩く。
私が持つからいいって言ったのに、春原はエコバッグを私と一緒に持っていた。端と端を、半分ずつ。なんとも歩きづらい持ち方だと思うけれど、嫌ってわけではない。大分浮かれているカップルみたいで恥ずかしくもあるけど。
「楽しみだなー、蜜柑の作るカレー」
「市販のルーだけどね」
「でも、蜜柑の愛情がこもってるから!」
「愛情て」
「……愛情、入れないの?」
「い、入れるけど……」
結局遅い時間になってしまったということで、春原はうちに泊まっていくことになった。夕飯は彼女のリクエストでカレーだ。
昔課外学習で作ったことはあるが、家で作るのは久しぶりというか、初めてな気がする。
うまく作れればいいんだけど、どうかな。
そう思いながら、暗い道を歩く。この辺はあまり街灯がなくて、夜はかなり暗くなる。夜目が利かない人々には危ない道な気がするが……。
その時不意に、車がかなりの速度で走る音が聞こえた。
ふと信号のない横断歩道を見ると、子供がゆっくり歩いているのが見える。走っている車は、速度を落とす気配がない。
ギリギリのところでようやく子供に気づいたのか、クラクションを鳴らしながら減速するが、このままだと確実に子供が轢かれてしまう。
私は弾かれたように走り出した。
後ろで春原が声を上げる。
間に合え、間に合え。
さらに速度を上げて、子供と車の間に割り込む。
両腕で車を止めると、体に衝撃が走る。少し遅れて、骨が軋むような音と、激痛も。だけど、すぐにそれも治る。
「……大丈夫?」
子供に声をかける。驚いた顔をしてはいるけれど、怪我はなさそうだ。
気は進まないけれど、一応、私のことは忘れさせた方がいいだろう。
車を素手で止められる人間がいるなんて言いふらされると困る。
『ごめんね。今見たことは、忘れて。気をつけて家に帰ってね』
「はい……」
子供はゆっくりと、帰路を歩き出す。
私は小さく息を吐いた。
危なかった。あとは警察に連絡をして、それから色々処理をしないと——
あれこれ考えていると、どさ、という音が聞こえてくる。
見れば、蒔月がバッグを地面に落としていた。いや、それだけじゃない。蒔月は地面に座り込んで、体を震わせている。
そういえば、蒔月はクラクションの音が苦手と言っていた。
私は慌てて彼女に駆け寄った。
「蒔月、大丈夫?」
「あ、蜜柑……。ごめん、なさい」
「え?」
「ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいで……」
「な、なんのこと? 蒔月が悪いことなんて、何も……」
蒔月は顔を真っ青にさせている。単に目の前で事故が起こったせい、ではなさそうだ。それにしてはあまりにも、様子がおかしい。
どうして蒔月が、ここまで。
……蒔月?
いや、違う。私は蒔月のことは、春原っていつも呼んでいる。
でも、蒔月は蒔月で。
何かがおかしい。何かを忘れている。
前にもこんなようなことが、あったような。
頭が痛むのを感じる。
あの日も蒔月が地面に座り込んで、泣いていたような……。
思わず頭を押さえる。
私は一体、何を忘れている?
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