第26話

「水族館って、来るの大分久しぶりかも」


 春原はそう言いながら、私の手を引いて館内を歩く。

 春休みの期間ということもあってか、館内には私たちと同じくらいの歳の人たちが多い。その中には当然、カップルもいた。


 彼ら彼女らの胸に宿る瑞々しい恋心が、眩しい。

 私はちらと、春原の方に目を向けた。彼女の胸には相変わらず、恋心は見えない。


 恋だけが好きじゃないとは、言っていたけれど。キスするような好きは、恋だけではないのだろうか。


 わからないから、足元がぐらぐらするような、そんな心地になる。

 もし彼女の胸に恋心が見えれば、私は安心することができたんだろうか。それとも——


「蜜柑、大丈夫? ぼーっとしてるけど」


 春原が私の顔を覗き込んでくる。私は小さく頷いた。


「大丈夫。無事に着いたから、ちょっと気が抜けちゃって」

「あはは、わかるわかる。なんか、すっごいバタバタしちゃったもんねー」


 穏やかな会話を続けながら歩いていると、不意に広い空間に出る。

 色とりどりの光に照らされた水槽の中に、何匹ものクラゲがたゆたっている。まるで星みたいだ、と思う。


「わ、すご! めっちゃ綺麗! 写真撮ろ写真!」


 彼女はいつになく楽しそうだった。

 肩を寄せ合って、写真を撮る。


 ただそれだけで、心が暖色の灯りに照らされたように、柔らかな温かさに包まれるのはどうしてだろうと思う。


 春原が笑っている。

 それが、どうしようもなく嬉しい。

 人の笑顔は好きだけど、こんなにも嬉しいのはきっと。


「ほんと、綺麗だね」

「ね! クラゲって——」

「春原がね」

「……え?」

「クラゲで喜んでる春原の笑顔は、クラゲよりも綺麗だよ」


 私はそっと、彼女の顔を覗き込んだ。

 夜空みたいな瞳が、微かな光を受けて煌めいている。その瞳に宿る感情を一つ一つ解き明かして、一緒に感じられたら、と思う。


 それがまだ、私にはわからない感情だとしても。

 それでも、愛おしい。

 にこりと笑う。春原は、どうしてかそっぽを向いた。


「いきなりそういうこと言うのは、駄目でしょ」

「どうして?」

「どうしても! まだそういう雰囲気じゃなかったじゃん!」

「まだ、なんだ」


 春原は私の手を引っ張って、おでことおでこをくっつけた。

 瞳が近い。

 ずっと見ていると、溺れてしまいそうだ、と思う。


「今日は私が完璧なプランを立ててるんだから、蜜柑は大人しく楽しんでて!」

「はいはい」


 雰囲気がどうとか、そこまでを含めたプランなんて、普通考えないと思うけれど。


 やっぱり春原は、おかしな人だ。

 私は思わず笑いながら、彼女が考えた完璧なプランとやらに従うことにした。





 しばらく館内を歩いて、やがてペンギンの水槽まで辿り着く。

 緩やかな坂を降りながらペンギンを見ていると、不意に春原に手を引っ張られる。


「ペンギン! 可愛いね!」


 思いがけないほど、大きな声だった。しかも、ちょっとうわずっている。


 私は一瞬目を丸くしたけれど、一度立ち止まって、ペンギンを見下ろした。なんというか、ペンギン特有のあの愛らしさは一体なんなのだろうと思う。

 懸命さというか、お馬鹿っぽさというか。


「確かに、可愛いよね。見た目もそうだし、歩き方とかも」

「蜜柑も!」

「うん?」

「蜜柑も、ペンギンに負けないくらい、可愛い……と思う」

「もっと自信を持って言ってよ。不安になるでしょ」


 春原は顔を赤くして、私を見ている。

 私の瞳よりも真っ赤なんじゃないかと、一瞬思う。さっきは平然と私のことを可愛いと言っていたくせに、こういう時は恥ずかしがるのはどうしてなんだろう。


 私は小さく息を吐いて、彼女の手を軽く引っ張った。

 バランスを崩しそうになっている彼女を、ぎゅっと抱きしめる。


 強く抱きしめたら壊れてしまうから、そっと。

 私から触れようとしたら、泡みたいにはじけてしまいそうで不安になるけれど。でも、今こうして感じている彼女の温かさも、その息遣いも、確かに本物だ。


「深呼吸して、春原」

「え。み、蜜柑?」

「いいから」


 私の腕の中で、春原の方が動く。

 生きているんだって、強く感じた。


 知れば知るほど、仲良くなればなるほど、失うのが怖くなる。その温かさも、二人だけの心地いい雰囲気も。


 作り上げるのは大変でも、壊れる時は一瞬だ。たった少しの衝撃で、関係なんて簡単に壊れて消えてしまう。そして、それを再び作り上げるのは、容易ではない。


 だから大事にしたい。

 でも、大事にすればするほど、もっと怖くなる。

 いつか、また悪いことが起きるんじゃないかって。


「……落ち着いた?」

「……うん」

「あんまり肩肘張らなくていいよ。春原は、春原らしくいて。いつものままが一番だよ」

「……そうだよね、ごめん。なんか、蜜柑があんまりにも自然に口説いてくるから、私も頑張らなきゃ! って気がして」

「私、口説いてなくない?」

「いやいや。君の方が綺麗だよー、なんて口説き文句以外の何物でもないでしょ」

「私は思ったことを言ってるだけだよ」

「む。どこかで聞いたようなことを……」


 私はくすくす笑った。

 春原は、いつも自分から恥ずかしいことをしてきたり言ってきたりする割には、自分がされると弱いのだ。

 そういうところも、嫌いじゃないけど。


「……とにかく! ここからは私らしく、蜜柑のこと引っ張り回すから!」

「いいよ。ついていってあげる」

「後悔しないでよ。蜜柑が参りましたって言うくらい、すごいデートにするから」


 すごいデートとは一体。

 疑問に思いながらも、私は少し調子が戻ってきたらしい春原とデートを楽しむことにした。





 しかし。

 春原は私をよほど照れさせたいのか、好きあらば変なことを言ってきた。綺麗だとか、可愛いとか。


 よくよく考えれば春原は元々こういう人だった。ちょっとキモめなこと言ったりとか、私をからかってきたりとか。


 でも、いつも通りの彼女とデートをしていると、やっぱり楽しかった。

 いつの間にか一日が終わってしまうくらいには。


「いやー、楽しかったね! オジサンもいたし!」

「……オジサン?」

「え。さっき私、何度も蜜柑に言ったよね? オジサンって魚がいるって……」

「ごめん。オジサンオジサン言うから、そういう趣味なのかと……」

「そんな趣味ないよ!?」


 春原は不服そうな顔をした。

 意外にからかい甲斐があるよな、と思う。こういう時の春原の反応は、ついからかいたくなる可愛さがある。

 あんまりからかうのは良くないってわかってはいるけれど。


「私は年上趣味とかそういうのじゃないからね」

「わかってるよ。だって、私のことが好きなんだもんね?」

「……う、そ、そうだよ!」


 好きという響きは、不思議だと思う。

 たった二文字の言葉に動揺して、春原の顔が見れなくなったりもしたっけ。私にはまだ、胸を張ってその言葉を口にすることはできないけれど。

 でも、春原を見ている時に感じる想いは、嘘じゃない。


「なんか最近、押しが強くなった気がする」

「誰かさんのせいかもね?」


 私はくすくす笑った。

 西日が眩しい。茜色の光に照らされた彼女の顔はいつも通り綺麗で、自然と視線が吸い込まれる。


 その後も私たちはぽつぽつ会話をしていたけれど、やがて自然と会話が止まる。


 駅まで歩くと、そのまま肩を並べて電車を待つことになった。

 行きと帰りでは、電車を待つ時間も、性質が変わると思う。さっきまでは楽しみって気持ちしかなかったけれど、今は少し、切ないような。


 一人きりの静寂と、二人の静寂は違う。

 いつの間にか私は、春原との間に流れる静寂を、失いたくないと思うようになった。


 繋ぎっぱなしの手から、確かに春原を感じる。

 示し合わせたわけでもなく、自然に。

 視線と視線がぶつかった。


 人と話す時は目を合わせる。だけど、何も口にしないまま見つめ合うってことは、ほとんどない。


 だからってわけじゃ、ないけれど。

 気づけば私は、その瞳に輝きに誘われるように。

 彼女の唇に、自分の唇を合わせていた。

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