第24話

「春原、大丈夫?」


 彼女は強く、私に抱きついてくる。

 それは、この前ハグした時とは全く違う、不安な気持ちに突き動かされているかのような、痛い抱きつき方だった。


 どうしたんだろう、と不安になる。

 私のお腹に回された手は、微かに震えていた。


「ごめん。クラクションの音って、苦手で」

「……そっか」


 彼女のこんなに弱々しい姿は、初めて見た。

 私はそっと、彼女の手に自分の手を重ねた。


「今日はもう、帰ろっか。家、送るよ」

「……うん」


 春原が私の背中で、小さく頷いたのを感じる。

 しばらくすると彼女はようやく平静を取り戻し、私の手を握って歩き出した。


 クラクションの音が苦手というのは、春原の弱みではあるのだろう。しかし、それを知って嬉しいと思う気持ちも、言いふらそうという気も、今の私にはなかった。





 春原の家は、私が住んでいるところとそう変わらない、普通のマンションだった。私は春原が家の鍵を開けている様子を眺めた。


 さっきまでとは一転して、春原はいつも通りの様子を見せている。

 私はちょっと、気持ちが追いついていなかった。怒ったり、心配になったり、いつも通りの彼女に安堵したり。


 今日はどうにも、彼女に振り回されている。

 いつもそうかもしれないけれど。


「私、帰るね」


 彼女が部屋に入って行くのを見て、私は踵を返そうとした。でもその前に、春原に手を握られる。


「待って。お茶くらい、飲んでってよ」


 ぎゅっと手を握られると、彼女の不安が伝わってくるようで、身動きが取れなくなる。


 考えてみれば、ここで私が帰ったら、春原は一人きりになってしまうのか。あんまり長居するのは駄目だと思うけれど、少しくらいは、お邪魔してもいいのかもしれない。


「……じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」

「うん、どうぞどうぞ」

「お邪魔します」


 春原に促されるままに、彼女の家に入る。

 人の家に来るというのは、かなり久しぶりだ。人の家の匂いは自分の家のそれとはやっぱり違う。だけど春原の家の匂いは、なんというか。初めて来た気がしないくらい、心地いい感じがする。他の人の家だと、こうは思わないんだろう。

 私は、小さく息を吐いた。





 春原に出してもらったお茶を飲んで、少しお喋りもして。

 そうしていると不意に、沈黙が訪れる。なんとなくここが、帰るにはちょうどいいタイミングなのかな。


 私が立ち上がると、春原も区切りのタイミングを感じたのか、立ち上がる。


「じゃあ、春原。そろそろ……」

「うん。そろそろ、鑑賞会にしよっか」

「……はい?」

「ささ、こっちこっち」


 どうやら、まだ私を帰す気はないらしい。春原は私の前を歩いて、自分の部屋に誘導してくる。


 私は仕方なく、彼女の部屋まで歩いた。

 春原の部屋は、意外に可愛らしい感じだった。ベッドにはいくつかのぬいぐるみが飾られていて、家具やカーテンはパステルカラーで整えられている。


 ……ジャンボサイズのぬいぐるみなんて、ないじゃん。

 まあ、そうだと思っていたけれど。


「あ、この子……」


 私は机の上に置かれたケージに目を向けた。

 その中では、小さなハムスターが走り回っている。


「そ。アイコンにしてるハムスター」

「確か、りんごだったよね?」

「うん。可愛いでしょ」

「ほんと、可愛いね」


 動物は見ているだけで心が和む感じがする。

 特に小動物はなんというか、特有の愛らしさがあると思う。私はじっと、りんごを眺めた。置かれているご飯を食べたり、忙しくケージの中を走る姿は、いつまでも見ていられそうだった。


 ぼんやり眺めていると、不意に横からかしゃ、という音が聞こえてくる。


 春原の方を見ると、彼女はスマホを構えて私の写真を撮っているようだった。

 ため息をつく。


「……いきなり撮らないでよ」

「ごめんごめん。すごい可愛い顔してたから、つい」

「可愛い顔て。……春原って、写真撮るの好きだよね」

「形に残るからね」


 そう言って、彼女は自分のベッドに座る。

 手招きされたから、私も彼女の隣に座った。二人で座ると、ベッドは一気に沈み込んで、ぬいぐるみがころんと転がる。


「思い出は、心に残ればいいとも思うけどね。……でも、こうして形に残れば、確かに現実にあった出来事なんだって確認できるし」


 春原は、どこか遠い目をして言う。

 私は彼女の瞳を見つめた。その瞳の奥にあるのが寂しさだということは、どうしてかすぐにわかった。


「……春原」


 名前を呼ぶと、彼女は笑う。


「蜜柑。これからも、たくさん色んなことして、色んな思い出を残してこうよ。アルバムが埋まっちゃうくらい」

「……そうだね」


 私は悪魔で、春原は人間だ。ずっと同じ世界で生きていていいのかは、わからないけれど。少なくとも彼女が望む限りは、隣にいたいとも思う。


 私の手に、彼女の手が重なる。

 いつもとは違う、一本一本の指を絡めるような重ね合わせ方。より彼女の熱を、強く感じる。それが決して嫌じゃない。


「……そうだ。りんごの可愛い動画、昨日撮ったんだ。見る?」

「え、見せて! どんなやつ?」

「えっとねー……」


 春原はスマホを私に見せてくる。

 そこには滑車で走るりんごの姿があった。動物はいつも懸命に生きていて可愛いと思う。いや、動物だけじゃなくて、懸命な姿が美しいのは人間も同じだ。笑ったり、怒ったり、悲しんだり。その一つ一つが、どうしようもなく愛おしい。


 私はバレないように、彼女の横顔を見つめた。

 りんごの動画を愛おしげに見ている彼女の瞳が、いつになく綺麗だった。その瞳に触れたくなるけれど、触れたら今の輝きはきっと消えてしまう。


 だから私は、この一瞬を心に刻みつけるように、彼女を見続ける。

 春原と一緒にいて、こんな気持ちになる日が来るなんて、思ってもいなかった。だけど、そんな想像できなかった今が、どうしようもなく愛おしい。


「……終わっちゃったね」


 動画が終わると、春原の表情も変わる。

 いつも通りのそれに。


 いつもの表情も、嫌いじゃないけれど。もう少し、さっきの顔を見ていたかった気もする。私も写真、撮っておけばよかっただろうか。


 いや。

 人の表情は、この目で見ることに意味があるのだ。写真じゃきっと、その魅力も半減してしまう。


「他にもあったかなー」


 春原はスマホをスワイプさせる。その時、大音量で聞き覚えのある声が流れ出した。


『にゃーん。にゃにゃ!』

『よしよし、蜜柑にゃんは可愛いねー』


 ……。

 おや?


「春原さん?」

「あ、そういえばこの前もりんごの動画撮ったんだよね。えっと何週間前だったかなー」

「……春原」

「……はい」


 私は春原の手を握った。逃げられないように、しっかりと。


「今の、説明してくれる?」

「えっと……あはは」

「あははじゃないんだけど?」

「ほら。蜜柑があんなことしてくれる機会なんてもうないだろうし、想像以上に可愛くて、なんかもったいないような気がして……」


 春原の言葉は、尻切れとんぼになっていく。

 彼女も一応、罪悪感は残していたらしい。さっきは撮っていないとか言っていたくせに。私は呆れ返って、ため息をつくことしかできなかった。


 春原は申し訳なさそうな顔で私を見てくる。

 まるで捨てられた子猫みたいな、寄る辺のない感じの顔。


 うむむ。こういうのに惑わされていると、私の恥ずかしい写真が取り返しのつかない枚数になりそうな。


「け、消さなきゃ駄目だよねー……」


 ひどく残念そうに、彼女は言う。

 私は深くため息をついた。そりゃもう、肺胞がぺしゃんこになりそうなくらいに。


「……はあぁ。いいよ、消さなくて」

「ほんと?」

「うん。……その代わり、撮ったなら撮ったってちゃんと言うこと」

「……ごめんなさい」

「よろしい。……他の人に見せちゃ駄目だからね?」

「え?」

「は?」


 一体誰に見せようとしてるのだ、この女は。

 私はそっぽを向うとする春原の頬を掴んで、引っ張り回した。


「すーのーはーらー?」


 油断も隙もあったものじゃない。

 春原は私がこれまで思っていた以上にめちゃくちゃな人間なのかもしれない。いや、まあ、私たちの関係の始まりからしてめちゃくちゃそのものだったんだけど。


 だる絡みしてもいいとか、この前許可したのが悪かったのか。

 いや、でも、うーん。


「いい加減にしないとそのスマホ、ほんとに粉砕するから」

「ごめんごめん。じゃあ、この動画は眠れない夜に見る用にする」

「それはそれでどうなの……? そんなの見ても安眠できないでしょ」

「できるよ。蜜柑を見てると、安心する」

「……」


 春原は、ふわふわした笑みを浮かべる。

 そんな顔で、そんなこと言われたら。

 もう何も言えなくなるじゃないか。


 私は満足げにスマホを見ている春原の頭を、ゆっくりと撫でた。彼女は一瞬驚いたように私を見つめてきたけれど、すぐに無言で肩を寄せてきた。


 いつもこれくらい静かならな、と思うけれど。

 そうじゃない春原も、やっぱり春原で。


 そんな彼女との毎日が、楽しくないと言えば嘘になる。

 私は小さく息を吐いて、彼女の髪を指で梳かした。

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