第22話
驚くくらい、密やかで優しい声だった。
心の何かが静かになったばかりなのに、今度は鼓動がさっきよりうるさくなるから、私の体は忙しすぎると思う。
私は何も言えないまま、彼女を見つめた。
キスなんてするのは初めてで、春原としてしまっていのだろうか、と思う。春原のことは決して嫌いじゃないけれど、かといって、そういう好きなのかどうかはわからなくて。
そもそも私に、誰かとキスする資格なんてあるのかな、とも思う。
「嫌なことは嫌って言わないと、人を勘違いさせるよ」
春原はそう言って、私に顔を近づけてくる。
積極的にしたいという気持ちと、嫌という気持ち。二つの間にはかなりの距離があって、私の気持ちがどこにあるのかよくわからない。
だけど春原が望むのなら、それでも構わない、とも思う。
私はぎゅっと、目を瞑った。
春原の指が私の髪に触れて、吐息が唇にかかる。
そして、彼女の唇が触れる。
——私の額に。
思わず目を開ける。
「春原?」
「唇にするとは、言ってないからね。驚いた?」
「……」
なるほど、確かに。確かにそうだけど、今の状況で唇にキスしないとか、ある?
いや、別に期待していたってわけではないけれど。でも、モヤモヤするのは確かで。私はなんとも言えない気持ちになって、ため息をついた。
「別に、驚いてはいないけど。春原のことだから、こういうオチだってわかってたし」
「あはは。蜜柑が唇にしてほしいなら、言ってくれればするよ」
「言わない」
「……怒ってる?」
「は? どこが。何が。誰が?」
なぜ、ちゃんとキスをされなかったからって私が怒らなければならないのか。春原がいいならそれでいい。私はいつだって人の幸せを願っているとも。
「もう帰る。いい加減、寒くなってきたし」
「あ、待って待って蜜柑! 行かないでー!」
私は立ち上がって、歩き出した。
どうにも、おかしい。さっきから私は、何かがおかしくなっている。自分の心がひどく不安定なものになっていて、今まで明瞭だったものが不明瞭になっている気がする。
静かになったり騒がしくなったり、私の心はあまりにも。
……はぁ。
こんな気持ちになるのは、初めてだ。
これでも全部、春原のせいだと思う。
春原の、馬鹿。
そうして私たちは、特に何も喋ることなく、駅までの道を歩くことになった。春原の好きなものを知るまで帰らないとは言ったけれど、さすがにもういい時間だ。
歩いているうちに心はいつも通り穏やかになっていって、額に訪れた柔らかさも忘れそうになった頃。
私は静かに口を開いた。
「そういえば、春原の好きなものって何?」
「ん?」
「結局今日は正解できなかったけど、知っておきたいし。教えてよ」
「あー……」
春原は微妙な笑顔を浮かべて、立ち止まる。
街灯がやけに眩しく彼女を照らしていた。私も彼女と向き合ったまま、立ち止まる。しんと静まり返った街に、私たちの吐息が浮かぶ。
彼女がくれた手袋のおかげで、指先まで温かかった。
「実は、正解なんてないんだ」
彼女は、言う。
「どういうこと?」
「私、好きなものも、好きな場所もないの。何か好きになってもすぐ飽きちゃって、どうせ飽きるんだろうなって思ったら、何を好きになっても無駄な気がして」
それは、嘘偽りのない春原の本音だ。
私は思わず、彼女を見つめた。どこか寂しげな表情で、彼女は私のことを見ている。
「きっと私は、空っぽなんだろうね。見せかけだけで、本当は、空っぽ。パッケージ詐欺みたいな感じ?」
彼女はおどけてみせる。
私は小さく息を吐いた。
「今日蜜柑が私の好きな場所を見つけようって頑張ってくれたのは嬉しかったよ。でも——」
「違うよ」
私は彼女の言葉を遮った。
本当の言葉は、できる限りちゃんと聞いてあげたいけれど。言わせる必要のない言葉も、あると思う。
「春原は、空っぽなんかじゃない」
「……蜜柑?」
「だって春原は、私のことが好きなんでしょ?」
彼女が私にどんな感情を向けているかは、この際いいとして。
春原は、私に恋ではない特殊な感情を向けている。そうでなければ、悪魔の私を怖がらず、こんなにも長い間一緒にいるなんてありえない。
私があげただけのリップを、ずっと大事に使い続けているのだって、そうだ。
彼女はいつも言っている通り、私のことが好きなのだ。
少なくとも、数ヶ月私に付き纏い続けるくらいには。
「私にはまだ、飽きてない。私の隣が好きで、私のことが好きで、私からのプレゼントは大事にする。それが私の見てきた春原だから」
私は春原の手を握った。
人に触れるのは、怖いことだ。
私はそれを、ずっと忘れていた。温かさも、柔らかさも、心地よさも。全部この力で壊してしまいそうで、不安になるから。
それでも、触れなきゃわからないこともある。
「他に好きなものを探したいなら、私も一緒に探す。だから、そんな寂しそうな顔しないで」
「……蜜柑」
本当か嘘かわからなくても、笑顔でいてくれた方がいい。
ちょっとムカつくことがあっても、どうかと思うようなことをしてもいい。春原が春原らしく、思うままにいられるなら、それが一番だから。
「……じゃあ。何も用事なくても、暇な時電話してもいい?」
「いいよ。いつでも連絡してくれていいって言ったでしょ?」
「……ダル絡みしてもいい? 悪戯してもいい?」
「いいけど、程々にね。度が過ぎてたら、怒っちゃうから」
「犬耳写真撮ってもいい?」
「い……うーん……。い、いいよ」
それで春原が満足するなら。
少し、いや、かなり抵抗はあるけれど。
「……蜜柑のこと、好きでいてもいい?」
春原は怒られるのを恐れる子供みたいに、聞いてくる。
恋だけが好きじゃない。前に春原は、そう言ったけれど。春原の好きは、どんな好きなんだろう。
私が春原に向けている、この感情は。
わからないけれど、それでも。
「いいよ、許したげる。私のこと、ずっと好きでいなよ。そうすれば、変なことで悩まず——」
言葉が、止まる。
春原の唇が、私の唇に触れた。
人の恋愛の相談に乗ることは多かったから、キスなんて大したことがないとずっと思ってきた。
でも、今。
ただ唇と唇がくっついただけで、私の鼓動ははち切れそうなくらいに速くなって、胸から気持ちが溢れそうになって、止まらなくなっていた。
どくどくと身体中に響く心臓の音が、怪我した時の痛みに、少し似ている。
ずきずきするような感じ。
心地よさと苦しさを交互に縫ったみたいに、心に訪れるこの感情は。きっと、春原が相手だからこその感情だ。
「蜜柑、好き」
「……うん」
囁かれるその言葉は、痛いくらいに本物だ。
春原はそのまま、ぎゅっと私を抱きしめてくる。今までにないくらい強く、大事なものを手放したくない子供みたいに。
私もそっと、彼女の背中に手を回した。
ふわりとした温かさと、柔らかさ。
それを感じているだけで、心まで浮かび上がるような気がする。
「……蜜柑に何か、私ができること、ある?」
「どうしたの、いきなり」
「私だけもらってばかりだと、駄目だから」
駄目なことなんて何もないと思うけれど。
それに、私は春原に、そんなに何かを与えてあげられているわけではないと思う。それでも、春原が私に何かをしたいと思っているのなら。
「じゃあ、お菓子作ってきてよ」
「お菓子?」
「そ。前、手作りのお菓子が好きって言ったでしょ? とびっきり美味しいお菓子作って、私を喜ばせてよ」
「……うん、頑張る」
春原はそう言って、また強く私を抱き寄せてきた。
私はその力強さから気持ちを感じ取って、彼女の胸に強く頭を押し付けた。
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