第19話

 学校の隅、ほとんど誰もこないような場所で、二人見つめ合って。

 それですることなんて、限られている。私は呼吸を止めて、彼女の動きを待った。


 花の匂いが混ざった柔らかな風が、私の頬を撫でる。それに流されるように、彼女の顔が近づいてきた。


「ほんと、蜜柑って綺麗な顔してるよね」


 細い指が私の唇をなぞる。

 春原は今、何を感じているのだろう。自分で自分の唇を触ることなんてほとんどないから、私にはわからない。ただ、その瞳はやっぱり、真剣そのものだった。


 彼女が本音を隠そうとすればするほど、暴きたくなるけれど。

 隠されずに曝け出された本当の感情を見ていると、その感情がどんなものなのか知りたくて仕方がなくなる。

 真剣な瞳に宿るのは私への好意か、それとも。


「睫毛長いし、目の色も綺麗だし、肌も白いし……」


 今この状況で褒められたって、どんな顔をしていればいいのかわからない。私の当惑をよそに、春原は笑う。


「それに、唇も柔らかい」


 私は人の笑顔が好きだ。

 人が幸せそうにしているところを見るだけで、心が弾む。

 でも。


 今の春原の笑みに感じたのは、そういう柔らかな感情ではなく。どこか、落ち着かないような、心がざわめくような、そんな不可思議な感情だった。


「春原って、そういうキモいこと言うのが趣味なの?」

「私は思ったことを言ってるだけだよ」

「それはそれでどうかと思うんだけど……」

「……動かないで」


 止まった呼吸が、また始まる。

 タイミングをずらされた私は、結局平静を保てないまま、彼女と向き合うことになる。


 そして、次の瞬間。

 指ではないものが、私の唇に触れた。


 硬いけれどほのかに温かくて、果物みたいな匂いのするもの。それは、春原の唇——ではなく。


「……何してんの?」

「蜜柑の唇に、リップ塗ってる」


 それは見ればわかる。

 春原はプレゼントをした日と同じように、私の唇にリップを塗りたくっている。それはもう、油絵でもやっているのかというくらいに。


 あの日よりも短くなったリップは、私たちがそれだけ長くの時間を共に過ごしたという証拠で。春原がこのリップをちゃんと使っているという証拠でもある。

 それはまあ、嬉しいっちゃ嬉しいんだけど。


「これのどこが証明なの?」

「隣にいると蜜柑にリップを塗りたくなるくらい好きだし、本気ってこと」

「……はぁ。何それ」


 好きだとか、本気だとか、そういうのの証明は、こうじゃないと思う。

 いや、別にもっとすごいことをされたかったってわけでもないんだけど。ただ、これだけ静かな雰囲気の中に二人でいて、することがこれなんだ、と思っただけで。


 ため息が出る。

 私は一体、春原に何を期待しているのか。


「もういい。お昼食べるよ」

「……はーい」


 結局、春原の新たな一面を見ることはできなかった。わかったことといえば、相変わらず彼女は私には予想できないようなことをする、ということだけだ。


 瞳の色は、真剣だったのに。

 本気の顔ですることが、リップを塗ることって、どうなのよ。自分の使ったリップを人に塗るってのも、あんまやらないのかもだけど。

 あれこれ考えながら、私は彼女が買ってきたパンの袋を開ける。


「ねえ、蜜柑」

「はいはい、何?」


 春原は私の耳元に唇を寄せてくる。

 こやつ、私の弱点を知っていて、こういうことを。


「もっとすごいこと、期待してた?」


 こそり。

 耳元で囁かれた言葉に、体が跳ねるのを感じる。私は彼女から離れて、ベンチの端っこに移動した。

 聞こえなくなっていた鼓動の音が、また全身に響き始める。


「……っ。何言ってんの、この変態」

「あはは、冗談冗談。蜜柑が可愛いから、つい」

「ついじゃないんだけど?」


 春原はけらけら笑っている。

 ほんと、こういう顔は子供っぽい。さっきまでの真剣な顔の方が好きだったとか言うつもりはないけれど、ちょっとムカつく。


 わかっていてやっているのか、単に無邪気なだけなのか。

 知らないし、わからないし、全然掴んでいないけれど。私は小さく息を吐いて、彼女の方を見つめた。


「……私のこと可愛いって言うけどさ。春原の方が可愛いよ」

「……え。どこが?」

「そうやって、無邪気に笑うとことか?」

「あ、そ、そうなんだ……」


 人には色々してくるくせに、自分がされると照れるんだよなぁ。

 なんというか、春原という人間はいまいち掴みきれない。ただ、顔を赤くして照れている彼女を見ていると、もっと褒めたくなるというか、悪戯心が湧くというか。

 私は少しだけ、彼女に近づいた。


「それに、プレゼントしたものを大事にしてくれるとことかも、いいと思うよ。私は好き」

「……あり、がとう」

「なんでお礼言うの? 変なの」


 くすりと笑うと、彼女は誤魔化すようにパンを齧った。

 やっぱりこういうところは、嫌いじゃない。もっと見たいと思うけれど、これ以上は春原が赤くなりすぎて爆発してしまうかもしれないから、やめる。


 私が黙ってパンを食べ始めると、ベンチに置いた手に、彼女の指が触れる。


「……手、繋いでいい?」


 彼女はひどく小さな声で聞いてくる。

 食事しながら手を繋ぐって、あんまりない気がするけれど。

 私は少し迷ってから、言葉より先に彼女の手を握った。


「春原って、体温高いよね」

「蜜柑は、体温低い」

「悪魔ですから」


 体温が低いことと悪魔であることは、全く関係がない。

 なんとなく、悪魔に熱い血なんて流れていない、とも思うけれど。

 佐藤はきっと体温高いだろうな、と思う。


「体温が低い人は、心があったかいんだよ」

「それ、春原は心が冷たいってこと?」

「そうかもね」

「んなわけないじゃん」

「自分で聞いたのに……」


 春原は私の手を、確かめるように握り返す。

 その力は、思いがけないほど強い。


 でも、同じ力を返すことはできなかった。その柔らかな感触が、あまりにも儚く感じられたから。


「春原は、あったかい人だよ。悪魔の私を怖がらないで、普通に接してくれるくらいにはね」

「蜜柑……」

「……単に危機感が薄いお馬鹿さんってだけかもだけどね?」

「ひどっ。蜜柑だから怖くないってだけだから!」

「はいはい、ありがと」


 私たちはそれ以上話をすることなく、静かにお昼を済ませた。

 その間、誰かが私たちの近くを通りかかることも、声をかけられることもなかった。





 そして、放課後。


「よーし、今日はとことん遊ぶぞー!」


 さっきまで割と静かだったのに、放課後になった途端春原は騒ぎ出していた。そんなに私と遊ぶのが楽しみだったんだろうか。


 と、思うけど。

 私も正直、楽しみではあった。


 春原との時間が何より楽しいかと言われると、そうでもないけれど。ただ、彼女と一緒にいると最近は落ち着くことが多い。騒がしい場所でも、静かな場所でも。

 春原の隣が好きかもしれないなんて、少し思う。


「ん。それで、どこ行くの? 今日は春原の好きな場所、付き合うから」

「……本当にいいんだよね? 後悔しないよね?」


 彼女は私の顔色を窺うように、尋ねる。

 私は笑った。


「当たり前でしょ。二言はないよ。地獄でも天国でも、付き合ってあげる」

「……そっか。じゃあ、今日は思い出の場所に行こう!」

「……思い出の場所?」


 私が首を傾げると、春原は笑った。

 私は人の笑顔が好きだ。好きだけど。今の春原の笑顔を見ていると、なんというか、こう……嫌な予感がする。


 まるで、今から悪戯しようとしている猫を見ているかのような。

 いやいや。いきなり疑ってかかるのも悪い。

 きっと春原なら大丈夫。大丈夫……だよね?

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