第16話
「っ……蜜柑?」
彼女は驚いたように声を上げる。
それも当然だ。だって、私が一番、自分の行動に驚いているから。ハグしてと命令されて抱きしめることは何度もあった。
でも、どうしようもない想いに突き動かされて彼女を抱きしめるのは初めてで、自分でもどうすればいいのかわからない。
私は悪魔で、春原は人間で。
こんなことをするのは良くないって、わかっているのに。それでも私は。
「ちょっと、痛いよ」
「……あ、ごめん。すぐ離す」
「……ううん、いい。このままぎゅってしててよ。痛いくらいのままで」
いいの?
聞きたい言葉は口から出ないまま、ただ彼女を感じる。
柔らかな髪の感触。他の何にもたとえられない、優しい熱。彼女の匂い。
全部、強くしすぎたら壊れてしまう、しなやかな体から感じ取れるものだ。それがどうしようもなく愛おしく思えて、離しちゃ駄目だって気がしてくる。
なぜこんな気持ちになるのだろう。
私と春原は出会ってからまだそんなに時間が経っていなくて、互いについて知っていることも多くはないのに。
そんな彼女が、どうして、こんなに。
「今度」
私は、小さく口を開いた。
「今度、私にもプレゼント、ちょうだい」
口にするとひどく軽い、わがままな言葉。
それに何を感じたのか、春原は私の腕の中で、微かに身じろぎした。
「いいよ。蜜柑が欲しいもの、なんでもプレゼントする」
「……土地とかでも?」
「うん。一生かけてでも」
「冗談だよ。春原が言うとほんとっぽくて、怖い」
「本当だからね」
不可解で信じ難い好意は、その実私の心に深く浸透して、私を以前とは違うものへと変えているのかもしれない。
春原の心を覗きたい。
その心にどんな感情が満ちていて、私に対する想いはどんな種類のもので、どんな気持ちで毎日を過ごしているのか。
その全てを知ることができたら、私いはきっと、今まで感じたことのない達成感を味わえるに違いない。
「だから、考えといてよ。何が欲しいか」
「……春原が選んだものなら、なんでもいいよ」
「……そっか」
私たちを包んでいた空気の色が、変わった。
そろそろ彼女を離さないと駄目だって言われている気がした。だから私は、名残惜しさを感じながらも、彼女から手を離した。
彼女の熱が、まだ私の体に残っている。
私は小さく息を吐いた。
「布団、用意する。客室あるから、そっちの方で——」
「待って」
彼女は部屋から出て行こうとした私の服を、ぎゅっと掴む。
昨日とは、立場が逆だ。
「せっかくだから、一緒に寝ようよ」
「え」
「ほら。私って、寝る時ぬいぐるみと一緒に寝るタイプじゃん? だから、一人だと寂しくて死んじゃうんだよね」
いつになく饒舌だ。
思わず目を細める。
「ぬいぐるみならあるけど」
「……私がいつも一緒に寝てるの、ジャンボサイズだよ?」
「あるよ」
私は断言した。
「ジャンボサイズもある」
「……」
嘘、というわけでもない。前に友達とノリで買ったことがあるのだ。案の定友達の家には置くスペースがなくて、私が引き取ることになったんだけど。
「じゃあいい。今日は寂しくぬいぐるみと一緒に寝るから」
「結局寂しいんだ。……いいよ。一緒に寝よっか」
くすくす笑って言うと、彼女は眉を顰めた。
「からかった?」
「どうかな? 考えてみなよ」
いつもの彼女みたいに、私は言う。
これで少しは、私の気持ちがわかっただろうか。
「……蜜柑って、意外と意地悪なんだ」
「これくらい意地悪のうちに入んないでしょ。枕持ってくるから、待ってなよ」
「……ん」
私は一度客室の方に行って、枕を取ってくる。
部屋に戻ると、春原はすでに私のベッドに入って、布団にくるまっていた。私はベッドに枕を置いて、彼女の隣に寝転ぶ。
「蜜柑の匂いがする」
「……それ、ちょっとキモいんだけど?」
「実際するんだから、仕方ないよ」
「口にしないで、心だけで思っときなよ。……ていうか、こっちにちょっと布団ちょうだい。寒いんだけど」
「私のこと抱きしめてれば、あったかいよ」
彼女は笑いながら言う。
その笑顔は、嘘くさくもわざとらしくもない、綺麗なものだ。でも、布団の中で丸まって芋虫状態で言われても、ちょっと困る。
私はため息をついて、彼女に背中を向けた。
「いい。私、悪魔だから風邪とか引かないし」
「あ、ちょっと! そっち向くの禁止!」
「私が家主だから、私がルールだよ」
「……なら、こうだ!」
ばさ、と音がして、温かな感触が私を包む。思わず彼女の方を向くと、布団に包まれたのだと気がついた。
狭い布団の中で、二人。
夜目が利く私は、暗闇の中でも春原の瞳を見つけることができる。目を合わせてみるけれど、彼女が私の瞳に気づいているかは、わからない。
それは少しもどかしくて、でも、それくらいがちょうどいいのかもしれない、とも思う。
私は思わず彼女の頬に手を伸ばそうとして、やめた。
「布団、あっためておいたよ」
「……調子のいいことばっか言って」
ため息をつこうとした時、伸ばして止めた手が、彼女に握られる。
私は微かに、体を撥ねさせた。嘘みたいに温かい手が、私の冷たい手を溶かすみたいだった。
「こうしてると、いい夢見れそう」
「……そ」
「おやすみ、蜜柑」
「うん。おやすみ、春原」
春原はそのまま目を瞑って、何も喋らなくなった。
静寂にも種類があるのだと、私は今日、初めて知った。
普段の家の静寂は、何もない静寂だ。だけど、今私と春原を包んでいる静寂は、目に見えないけれど確かな何かがある、温かな静寂だと思う。
これを失った時、人は寂しいという感情を抱くのかもしれない。
私は、どうなんだろう。
暗闇の中で彼女を見つめていると、何かが掴めそうな、やっぱりそうでもないような気がする。
やがて彼女が眠ると、私の手を握っていた力も緩む。
そのタイミングを見計らって、私は布団から出た。
「……おやすみ」
私は消し忘れた電気を消して、リビングに戻った。
残念だが、私には寝ている時間はない。どんな時でも、どんな人でも助けられるように、自分を磨いておかなければならないのだ。
私はリビングに戻って、勉強を再開した。
朝日が空に見える頃には、心地よい静寂も、彼女の熱も忘れて、ただシャーペンの硬い感触が指に残るのみになった。
「わ、すっごい降ったねー」
明くる日。
私たちは肩を並べて通学路を歩いていた。昨日の夜はかなり雪が降ったらしく、街は白く染まっていた。
まだ新しい雪を踏み締めて歩く彼女は、今日も楽しそうだった。
「雪はいいねー、テンション上がる!」
「春原はいつもテンション高いでしょ」
「それはそれ、これはこれ。……雪合戦でもしよっか?」
「しない。どこかの誰かが全然起きないせいで、遅刻ギリギリだからね」
「つれないなー」
そう言って、彼女は雪を蹴り上げる。
白い粒子が宙に浮かんで、目もあやな光景が目の前に広がる。
眩しさに目を細める。再び目を開くと、彼女の楽しそうな笑みが視界に入ってきた。
それを見て、私はやっぱり、人の楽しそうなところを見るのが好きだ、と思った。誰かが幸せそうにしているところを見るより幸せなことなんて、きっとない。
「蜜柑蜜柑。こっち見て?」
「……何?」
「はい、どーぞ」
春原はそっと、私の頭に何かを乗せてくる。そして、スマホを取り出して、私の姿を写真に取り始めた。
……うん?
「ちょっと、何撮ってんの」
「蜜柑わんこ」
「は?」
彼女のスマホに写っているのは、雪でできた耳を頭につけた私の姿だった。
何をしてくれているのか。
「写真は撮らないでって言ったじゃん!」
「今日は言われてないし……」
「はぁ!? 今すぐ消して!」
「やだ。待ち受けにする」
「……」
……こいつ。
「そのスマホ、粉々にしてあげようか?」
「できるならね。ほらほら鬼さんこちら!」
春原はそう言って、駆け出す。
子供か。というか、これ以上人に見せられない写真を撮るのはやめろって話だ。
春原のことは、知りたい。知りたいけれど、私も彼女の恥ずかしい写真の一枚や二枚くらい撮っておかないと、いよいよまずいことになりそうだ。
「蜜柑遅いよー。……いたっ。いたたっ! やったな!」
私が雪玉を彼女の背中にぶつけると、彼女も雪玉を返してくる。
「雪合戦マスターと呼ばれた私の力、見せてあげるよ!」
「見せなくていい! 一方的に雪、ぶつけられてればいいよ!」
「やだね!」
私たちはそうして、しばらく雪をぶつけ合っていた。
時間がやばいことを思い出したのは、同じ制服を着た子たちが焦った様子で走ってきたのを見てからだった。
結局私は遅刻を免れるために、春原を背中に乗せて走ることになった。
今日ほど悪魔としての身体能力の高さに感謝した日はない。
……いや、ほんと、どうかと思うんだけど。
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