第14話
「春原」
名前を呼ぶ声が、遠い。自分の声とは思えないくらいに。
それに戸惑っている間に、春原の顔がさっきよりも近づいてくる。吐息と吐息がぶつかり合うのを感じて、私は目を開けた。
瞳が、近い。
こんな近くで誰かの目を見るのなんて、初めてだってくらいに。速くなった鼓動がうるさいはずなのに。春原の呼吸の音しか感じ取ることができないのは、耳がおかしくなっているせいなのか、心がおかしくなっているせいなのか。
私は息を吐くこともできなくなって、彼女を見つめた。
その瞳には、まだまだ私にはわからない感情がいくつも浮かんでいる。
「蜜柑——」
「おーい蜜柑! 問題解き終わったよー!」
足音が聞こえてきて、私は素早く春原の下から抜け出した。
その数秒後には、西園が部屋の前まで来ていた。
「あ、春原さんもここにいたんだ。参考書、二人で探してたの?」
「そ、そんな感じ。で、手応えは?」
「ばっちり! これは満点間違いなしですわ!」
「そっか。じゃ、解説しながら採点するね」
「おけ!」
私は呼吸を止めていた時間を取り戻すように、何度も深く深呼吸をした。鼓動は相変わらず速いままだけれど、少しだけ落ち着いた、ような気がする。
「……私、ちょっと飲み物でも買ってくる」
春原はそう言って、私たちの間を通り抜けていく。
その表情は、見えなかった。
「……もしかして、なんか邪魔しちゃった?」
「ううん、そんなことないよ」
邪魔というか、なんというか。
あのまま西園が来ていなかったら、どうなっていたんだろうと思う。もしかしたら、そういう展開になっていた?
いや。
いやいや。
さすがに、それは。確かに私は抵抗する気が起きなかったけれど、それは春原のことを完全に受け入れたとかそういうのではなく。
抵抗したら、怪我をさせてしまうかもしれないからで。
春原の方は、どうだったんだろう。
どういう気持ちで、私に迫ってきていたのか。
恋だけが好きじゃない、という言葉を思い出す。じゃあ、彼女は私に、どんな好きを?
わからない。
私は小さく息を吐いて、リビングに戻った。
「……西園」
「はい」
「何か言うことは?」
「……いやぁ、こんなこともあるんだね!」
「だね! じゃない! 全問不正解じゃん! 期末までもうあんま時間ないのに、やばいでしょ!」
「う、うぅ……」
自信満々だから、もしかしたら八割くらいは正解なのかも。
そんな甘い考えを打ち砕かれて、私はちょっと呆れた。
「み、みかん〜……。助けてぇ……」
西園は私に縋り付いてくる。
私は思わずため息をついた。
「一週間は休むの禁止ね。みっちり教えるから」
「うえぇ……」
「テストが終わったら、その分たくさん遊ぼうよ。ね?」
「ん……」
これはかなり根気がいりそうだ、と思う。西園に求められているいい点がどれくらいなのかはわからないけれど、とにかく頑張るしかない。
私は彼女に適宜ご褒美のお菓子をあげながら、勉強を教え続けた。
その間、戻ってきた春原は黙々と一人で勉強をしていた。この様子を見ると、やっぱり春原は成績がいいんだろうな、と思う。
真剣な横顔は、さっきとはまた違った意味で、目を奪われるくらいには綺麗だと思った。
しばらくそうして三人で勉強していると、気づけば日が沈んでいた。
西園はスマホに目を落として、慌てて立ち上がる。
「やば! もうこんな時間じゃん!」
「西園ん家は門限あるんだっけ」
「そそ! 今日はありがと! そろそろ帰るね!」
バタバタと帰り支度をして、西園は玄関に向かっていく。私も立ち上がって、彼女についていった。
「下まで送るよ」
「あ、うん。じゃあね、春原さん! 今度はもっとお話ししようねー!」
春原は小さく手を振って、西園を見送る。
私は西園と一緒にエレベーターに乗った。
「なんか、ちょっと意外だった。蜜柑と春原さんって、仲良いんだ」
ぽつりと、西園が言う。
「うーん。まあ、そうかな」
「何その微妙な反応。……でも、いいと思うよ。最近蜜柑、前より楽しそうだし」
「そう?」
「ん。難しい顔しなくなった気がする。私もそうだけど、顔がいいんだから笑ってなきゃ損だよ!」
「……ふふ。そうかもね」
「そうそう! そうやって笑ってれば、福は来る! じゃね!」
「うん。またね」
西園はぶんぶん手を振って、小走りで去っていく。
佐藤もそうだけど、私の友達は毎日元気な子が多い。私は彼女たちほどの溌剌さはないから、時々羨ましく思ったりもするんだけど。
部屋に戻ると、春原はまたテーブルで勉強をしていた。
随分と熱心だと思う。もしかするとそれは、西園と勉強する予定を入れてしまった私に対する当てつけなのかもしれないが。
「春原。もう結構いい時間だけど、帰らなくていいの?」
「大丈夫。どうせ、家に帰っても親、仕事でいないしね」
「……そっか」
前に転勤族だったって言っていたけれど、両親共に忙しいんだろうか。
それで寂しいから、私と一緒にいたがるのかな。なんて思うのは、いいことじゃないとは思うけれど。
せめて彼女が私に好意を向けてくる理由を知ることができたら。少しは私も、彼女のことを信頼できるんだろうけど。
「蜜柑は、一人で寂しくないの?」
シャーペンを回しながら、彼女が言う。
私はそっと、カーテンを閉めた。
「私は、悪魔だから」
「どういうこと?」
「私たち恋魔は、基本家族で暮らすなんてことはないの。人よりずっと早く家族とは離れ離れになるし、私もそう。気づいた頃にはもう、家族なんていなかった」
最初から家族なんて私にはいなかったから、寂しさなんて感じることはない。
いないのが当然で、人間と私たちは違うと、生まれた時から知っている。私が親からもらったものといえば、この体と、使いきれないほどの財産くらいだ。
そういえば。
この家を借りると時は大変だったな、と思う。あれはまだ、物心ついたばかりの頃だったから。どうにか悪魔の力を使って、契約を取り付けたのだ。
基本的に私利私欲のために力は使わないけれど、さすがに住居は必要だ。
「最初から何もないなら、寂しく思うなんてこと、ないでしょ?」
「……それは」
昔、誰かに似たようなことを聞かれた気がする。
植物を育てることを勧めてくれたのも、その人だっけ。顔も名前も、どんな関係だったかも、もう思い出せはしないけれど。
「でも、理解はできるよ。普通、家に一人でいたら、寂しいんだよね? 春原も、そうなんじゃないの?」
「……そうだね。一人は、やっぱり寂しいかな」
「だよね」
私はふっと笑った。
理解はできるけれど、感じることはできない。きっと、今春原が抱いている感情は、そういうものだ。
知っているけれど掴んでいない春原のことと同じで。
人間の感情について、わからないことが多すぎる。そう実感する度に、心はずんと重くなって、自分が悪魔なのだと再認識する。それでも、私は、私と関わった全ての人に、少しでも幸せになってほしいと願っている。
誰かが傷ついたり、悲しい思いをしたりしているところは、もう見たくない。
だから私は、自分の全てを使って、人を助けたいと思っているのだ。
「……大丈夫だよ、春原。寂しいなら、私が傍にいるから」
笑いかけると、彼女は少し、変な顔をした。
「……じゃあ。今日、泊まってってもいい?」
いつもとは比べ物にならないくらい小さな声で、彼女は言う。
私は少しだけ、目を丸くした。
彼女は少し恥ずかしそうに、私を見ている。
思わず、笑った。
「うん、いいよ。気が済むまで、泊まっていきなよ。ご飯と布団くらいなら、用意するよ」
「さ、さすがに明日になったら帰るよ!」
「冗談だよ。……とりあえず、お風呂でも沸かしてくる。春原はそのまま、好きにしてて」
「手伝うよ」
春原は立ち上がって、真剣な目で私を見てくる。
お風呂洗うだけなんだから、いいのに。
でも、そういう顔は、嫌いじゃない。
「じゃ、お願いしちゃおっかな?」
「任せて。私、お風呂洗うのは結構得意だよ」
「私も。どっちが早く綺麗にできるか、競争でもしようか」
「いいよ。その道十年の実力、見せてあげる!」
家族が傍にいない寂しさは、私には感じられない。
だけど、こうして家に誰かがいる喜びを、今、私は確かに感じた。
心がほのかに温かくなるような、じわりと広がるけれど、すぐに消えてしまうような。そんな曖昧な心地よさが、悪くないと思う。
それは、相手が春原だからなのかもしれない。
……なんて。
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