第13話

「おっじゃましまーす!」


 相変わらずの大声で、西園にしぞのは言う。そのまま家の中に入ってくるかと思ったら、意外にも靴をちゃんと揃えてから、私に袋を渡してきた。


「これ、手土産ね。さっき学校のコンビニで買ってきた」

「そんな改まらなくたっていいのに」

「こういうのはちゃんとしろってのが家の教えだから。いつもと違って、蜜柑の家でやるしさー」


 意外にしっかりしているところがあるよな、と思う。

 いつもはご褒美にお菓子をあげないとちゃんと勉強しようとしないのに。私は西園をリビングに案内して、さっきから不満げな表情を浮かべている春原に目を向けた。


「春原」

「何」

「ごめんね。西園のこと、ほっとくわけにもいかないからさ。今回の期末でいい点取らないと、バイト禁止されるらしくて」

「……言い訳はそれだけ?」


 春原の背中に尻尾が見える。

 ぶんぶんと左右に振られた尻尾は、犬なら喜び、猫なら——。

 私は苦笑した。


「ごめんて。埋め合わせはするから」

「……別に、いい」


 春原がここまで感情をわかりやすく表に出すのは珍しい、と思う。それだけ今日を楽しみにしていたのだろう。


 確かに、昨日の夜から色々と、どこに行こうとか何をしようとか計画を立てていた。


 それは、春原の好きなものを知りたいがためである。色んなところに行ってみて、彼女の好きなものとか、好きなことを知ろうと思ったのだ。

 どうせ、直接聞いたらはぐらかされるだろうから。


「……珍しく蜜柑が乗り気だから、期待してたのに」


 ちくちく、ちくちく。

 痛いってほどじゃないけれど、確かな存在感のある棘が私の胸に刺さるのを感じる。楽しみにしてくれていたのは嬉しいけれど、ここまでトゲトゲされるとちょっと困る。


 でも、これは春原の新たな一面だ、とも思う。

 もしかすると春原は、感情を上手に隠しているだけで、実は結構感情的になりやすい人なのかも。

 それは、私も同じだろうけど。


「蜜柑ー? 春原さんー? どうかしたー?」

「ううん、なんでもない! ごめん、待たせちゃって!」


 私はリビングに行こうとしたが、春原の方から視線を感じて、彼女の方を振り返った。


「ほら、春原も」

「……ん」


 春原はそれ以上何も言わず、私についてくる。

 西園に泣きつかれたのは、ついさっき。いつも勉強は図書室で教えているんだけど、今日は図書室で講演会をやっていて、使えそうになかったのだ。


 勉強ができる場所を探す時間ももったいなかったから、こうして私の家を使うに至ったのである。

 ……とはいえ。


「綺麗な花飾ってるね。これ、なんだっけ。シロツメクサ?」

「カスミソウだよ。可愛いでしょ」

「ほえー。確かに可愛い。蜜柑っぽい!」

「カスミソウが……?」


 私は首を傾げながらも、以前と同じようにお茶の準備をする。

 家に人を招くことなんて、もうないと思っていたけれど。


 この前春原が遊びに来たことで、心の中の何かが緩んだのか、今日の私は平気で二人を家に招いてしまった。

 いいのかな、とは思う。とはいえ、全ては後の祭りというやつだ。


「てかさ。いきなり来ちゃって、迷惑じゃない?」

「大丈夫。私、一人暮らしだから」

「……そっか。じゃあ、せっかくだし今日は泊まっちゃおっかな?」

「お帰りください」

「冗談冗談。でも、嬉しいよ。蜜柑の家初めて来たし」


 西園は興味深そうに花瓶を見ながら言う。

 その向かい側に、春原が座った。


「嬉しい?」

「うん。ほら、遊び行くことは結構あるけど、家に遊びに来るとかなかったじゃん? だから」

「……そういうものなんだ」

「そそ。今日は頑張るぞー!」


 私はお茶を入れて、テーブルに持っていく。

 その時、春原の視線を感じた。


 明らかに、隣に座れと言われている。それを無視するのはさすがに悪いから、私は彼女の隣に座って、西園に勉強を教え始めた。


 対面だとちょっと教えづらいけれど、そこはもう仕方がない。

 幸い西園は真面目に勉強する姿勢だから、春原との関係について特に何も言われることはなかった。


「……あ。ごめん、ちょっと部屋から参考書とってくる」

「はいはいいてらー」


 西園は学校で配られたプリントの問題をせっせと解いている。

 普段不真面目で遊びまくっているのに、こういうところは真面目だ。私はふっと笑って、自分の部屋に戻った。


 机の上に置かれた参考者を手に取ってリビングに戻ろうとすると、不意に後ろから気配を感じた。


「春原? どうかし——」


 言葉が終わらないまま、止まる。

 ふわりと、背中に柔らかなものがくっつく。


 手から参考書が落ちて、バサバサと音を立てた。一瞬状況がわからなくて、でも、すぐに春原に抱きしめられたのだと気がついた。

 どくん、と鼓動が高鳴るのを感じる。


「へ、あ? え、春原?」

「今日は、してなかったから」


 春原は、小さな声で言う。

 耳がくすぐったい。


「嫌だったら、ごめん」

「……別に、嫌じゃ、ないけど」

「……うん」


 やっぱり慣れない。

 春原の抱擁は日に日に優しさを増していき、最近ではまるで、恋人同士のそれみたいになってきている。


 私からハグするときはどうなんだろう、と思うけれど、感想なんて聞けるはずもなくて。


 私はそっと、回された手に自分の手を重ねた。

 ちょっと力を込めたら折れてしまいそうなほど、細くて長い指。人は思い切り力を込めて人を抱きしめても、きっと相手を壊してしまう心配なんてしなくていいんだろうけれど。


 私は、悪魔だから。

 思い切り感情を伝えようとしたら、相手のことを壊してしまう。


 だから、何も感じられないくらい弱く、ためらいを残したまま彼女に触れる。


「久しぶりのお客様だって、言ってたから」

「え?」

「私だけが特別なのかもって、思ってた」


 春原は私の耳元で囁く。

 耳がぴりぴりする。


「それは——」

「いいよ。別に、勘違いだってわかってるから。……でも、やっぱり」


 彼女の吐息が、耳に当たる。その度に私は、なんとも言えない心地になる。不安と喜びの中間のような、奇妙な感情が渦を巻く。


 深呼吸をしようとするけれど、その前に、温かいものが耳に触れた。

 それは、間違いなく、春原の唇。


 無機物の柔らかさとは違う、生命的な柔らかさが、私をどこまでも混乱させていく。

 心が軋む音が、聞こえてきそうな。


「ちょっ……と!」

「埋め合わせは、これでいいよ。じっとしてて」


 耳を甘噛みされていると、体が言うことを聞かなくなっていく。

 自分でも止めようがないくらい体が跳ねて、どんどん感覚が鋭敏になる。彼女の温もりが、柔らかさが、湿った吐息が、脳髄にまで染み付いていく。


 いきなりだ。

 春原がすることはいつだっていきなりで、その度に私は、なんなのと思ったり当惑したり。でも、拒絶するほど嫌なのかって言われたら。


「ほんと、耳弱いね。可愛いよ」

「……変態」

「うん。そうだね」


 言い返してくれないと、どうしようもない。

 そう思っていると、今度は硬いものが耳たぶに触れる。次の瞬間、軽い痛みが耳に走った。


「っ……」


 思わず彼女から逃げようとして、足がもつれる。

 バランスを崩した私はそのまま、傍にあるベッドに倒れ込むことになった。


 無論、春原も一緒に。

 立ち上がろうとするけれど、彼女に押し倒される形になってしまったせいで、どうすることもできなくなった。


 黒い瞳が、星みたいに私を見下ろしている。

 息が詰まるのを感じた。

 張り詰めた静寂が、耳に痛い。


 何も言えないまま彼女を見つめていると、徐々にその顔が私に近づいてくる。垂れてきた黒い髪が、頬に触れた。


 目を瞑ると、吐息を感じる。さっきよりも、ずっと強く。

 だからってわけじゃ、ないだろうけど。

 抵抗という字が、私の中から消えるのを感じた。

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