第9話

 抱きしめられるのはしょっちゅうだけど、こういう子供みたいなことをされるのは初めてだ。


 だから私は一瞬、どうすればいいのかわからなかった。

 でも、背後から伝わってくるのは明らかに期待の気配だ。


 そんな気配を出されても、とちょっと思う。これが高校生がすることなのか、とも思うし。うむむ、しかし。

 仕方ないか。


「春原」

「春原、何?」

「は?」

「私は春原何でしょうか」

「……春原は春原でしょ」

「私、春原春原なんて愉快な名前じゃないよ」


 思ったより面倒臭いことを。


「春原、しー?」

「づき」

「フルで言ってよ」

「はぁ。……蒔月。これでいい?」


 仕方なくそう言うと、私の目を覆っていた何かがパッと離れた。

 一言文句を言ってやろうと思って振り返ると、春原に微笑みかけられる。


 なんの笑顔なの?

 喉から出かけた言葉は、彼女の笑顔に流されて心の奥に消えていく。結局私は、ただぽんぽんと自分の隣を手で叩くしかできなくなった。


 春原は意図を察したのか、のそのそ私の隣に座ってくる。どうせ、何もしなくても勝手に隣に座ってきていただろうけど。


「蜜柑」

「何、春原」

「……蒔月って呼ばないの?」

「それが命令なら呼んであげる」

「んー。……いいや。蜜柑にはもっと特別なお願いするから」


 特別なお願い、とは。

 身構えていると、春原の顔が近づいてくる。

 いや、まさか、特別ってそういうことなの?


 思わず体をのけぞらせるが、彼女との距離が変わることはない。私が離れた分、詰めてくるせいで。


 じっと、目を見つめられる。

 黒い瞳が、相変わらず猫みたいに私を映している。整った顔に浮かんでいる表情は真剣で、少しだけ目を奪われてしまう。

 鼓動が言うことを聞かなくなる予感がした。


「な、なんなの。近いんだけど」

「なんだと思う?」


 春原はこうして頻繁に、人を試すような言動をとる。

 大抵のことはわからないから聞いているというのに。でも、これが彼女なりのコミュニケーションだったりするのだろうか。私のことを、より深く知るための。


「当てられたら、ご褒美あげるよ」

「何それ。賞金でも出るの?」

「さあ。それは当ててからのお楽しみってことで」


 春原が妙に私に近づいてきている理由なんて、当てられたら苦労はしないと思う。

 彼女に関しては、わからないことが多すぎるのだ。


 時折見せてくる好意らしきものも、向けられる覚えがなさすぎる。

 私は引き結んだ口を開いて、何かを言おうとした。


「春原——」


 私が口を開いた瞬間、チャイムが鳴り始めた。

 予鈴だ。どうやら、昼休みはもう終わりらしい。


「……教室、戻んないとだね。行こ」


 彼女はさっきまでの近さが嘘だったみたいに、私から離れて立ち上がる。


 私は小さく息を吐いた。いきなり近づいてきたと思ったら、なんの感慨もない様子で離れて。本当に、春原は猫みたいだと思う。


 さっき近づいてきたのは、単に私を困らせたかったから、なのかもしれない。


 歩き出そうとした彼女は、ふと何かを思い出しかのように、私の顔を覗き込んできた。


「戻りたくないなら、付き合うよ。どこにでもね」


 彼女はにこやかに言う。

 私はため息をついた。


「……何馬鹿なこと言ってんの。戻るよ、教室」

「はーい。……あ、そうだ。今日は放課後、時間空けとかないと駄目だよ」

「……はいはい」


 最近、勝手に手を握られることが多かったけれど。今日は特にそういうこともなく、一歩分距離を開けて歩くことになる。


 教室までの距離はそれなりに遠いけれど、今日はいつもより少し、近くも感じられた。





「お邪魔しまーす」

「はいはい、お邪魔されます」


 放課後。

 私は春原を自分の家に連れてきていた。それは、私が遊びに来てほしいと望んだからではなく、彼女がそう望んだからだ。


 あの勝負に勝ったのは、春原だから。

 だから仕方なく、私は彼女を家に招いたのだ。


「うわ、すごい整理整頓されてるね」

「整理っていうか、何もないだけじゃない?」


 あまりものが置かれていない家を、彼女は物珍しげに眺めている。

 イメージ的に、彼女の部屋はごちゃごちゃっとしていそうな感じがする。だから何もない家が珍しいのかもしれない。


「……とりあえず、適当なとこ座って。お茶かコーヒー、どっちにする?」

「蜜柑の好きな方でいいよ」

「……じゃ、お茶ね」


 この家に私以外の誰かが足を踏み入れるのは、何年ぶりだろう。

 ぼんやり思いながらお茶を淹れて、彼女に差し出す。ついでに適当なお茶請けも出して、彼女の隣に座った。


「隣、座ってくれるんだね」

「どうせ、隣に座れって言ってくるでしょ」

「まあね。でも、何も言わなくても座ってくれるのは嬉しいよ」


 にこり、と彼女は笑う。

 いつも通りの笑みだ。だけどそれをいつも通りと思えない。それは、きっと。昨日の彼女の言葉が原因で。


「……蜜柑? なんで目、逸らすの?」

「逸らしてない。ただ、お菓子食べたいなって思って」

「そんな食いしん坊キャラじゃないでしょ。こっち向いて」

「やっ……」


 彼女の手が、私の頬に触れる。

 触られたら、抵抗はできない。壊してしまいそうで、怖いから。私はそのまま、彼女の方を強制的に向かされた。


 随分と久しぶりに見る気がする、彼女の黒い瞳。

 奇妙な感じでもあり、真剣そうな感じでもある不思議な色の瞳に、私の姿が浮かぶ。


 見つめたら恥ずかしがっていたこの前と違って、彼女はまっすぐ私の目を見つめてくる。

 私たちの呼吸の音しか聞こえなかった空間に、心臓の音が混じる。


「やっと目、合ったね」


 彼女はそう言って、また笑う。

 うるさくなった心臓は、彼女の目を見つめている限り静かになりそうにない。だけど、どうせ目を逸らしても、無駄だってわかっている。

 だから、我慢して彼女の目を見つめる。


「なんで今日、私から逃げてたの?」

「……それは」


 昨日の好きに、心を乱されたから、なんて。

 そんなこと言えるはずもなくて。


 そもそも、本当かもわからない言葉に動揺するなんて、あまりにも馬鹿げているとも思うのだ。


 春原がいつも真剣で、嘘偽りのない言葉だけ口にしていたら。

 そう思うけれど、そんな春原は春原ではない。それに、こういう意味不明な春原だからこそ、どうにも気になるっていうのもあるだろうし。


 ほんと、よくわからない。

 私も、春原も。


「……やっぱ、いい。でも、もう逃げちゃ駄目だよ。ちゃんと一緒にいないと、恋が育たないからね」

「……そんなに恋してほしいなら、他の人間と関わってた方がいいと思うけどね」

「私は蜜柑がいいんだよ。蜜柑が、私に、恋しないと」


 なんだそれ、と思う。

 私は、恋魔だ。恋心を食べる悪魔が、人に恋をするなんて笑えない。私は、小さく息を吐いた。


「わかってる? 私は、悪魔なの。それも、恋を食べる悪魔。私にとって恋は餌で、食べ物で、自分が誰かに恋するなんてありえないの」

「……知ってるよ、蜜柑の種族は。それでも私に、恋してほしいって言ってる」

「……知ってるだけじゃ、意味ない。知ってても、わかってない。掴んでない。悪魔の怖さも、私たちのことも、何も」


 遊びで悪魔に手を出したら、どうなるか。春原は全くわかっていない。私ならいたずらに人を傷つけないなんて言うけれど、結局私も悪魔だ。


 人間とは違う存在で、人にとって危険な存在だということは、変わらない。


 私は誰よりそれを知っているはずなのに、春原と過ごすうちに、忘れかけていたのかもしれない。

 だから好きなんて言葉に、惑わされてしまったのだ。

 私は、立ち上がった。


「……え。ちょ、蜜柑?」


 ブラウスのボタンを一つずつ外していくと、春原が困惑した声を上げる。

 私は、笑った。


「見せてあげる。人間のあんたに、私の本当の姿を」


 小さく息を吐いて、私はスカートに手をかけた。

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