第8話

「蜜柑ちゃん。……蜜柑ちゃん!」


 耳元で名前を呼ばれて、自分がぼーっとしていたことに気づく。

 顔を上げると、ちょっと不機嫌そうな顔をした佐藤の顔が目に入った。


「もー! 久しぶりに二人でご飯食べてるのに、なんでそんな心ここにあらずなんですか!」


 ぷりぷり怒る佐藤に、私は頭を下げた。


「ごめん。ちょっとね」

「……何か悩み事ですか?」

「うんにゃ。そろそろクラス替えの時期だなーって思って」


 佐藤は私と同じで恋魔だ。しかし、春原とのことを相談するつもりはない。


 春原に私が悪魔であることがバレたと知ったら心配するだろうし。まともに話せる同胞なんて滅多に見かけないから、このまま良好な関係でいたい。


「それよりさ。恋人さんとは最近どうなの? うまくやってる?」

「……! はい! それはもう、熱々のラブラブです!」


 佐藤の言葉のセンスは、なんとも言えない。どこで覚えてきてるんだろう。

 私はふっと笑った。


「そかそか。ほら、私のパンちょっとあげる。たくさん食べて、大きくなりなよ」

「ふぁい」


 千切ったパンをあげると、彼女はもそもそ齧り始めた。

 私はこうして佐藤と定期的に交流している。多分私たちは、恋魔にしては珍しいことをしているのだと思う。


 恋という資源を奪い合う都合上、普通の恋魔は交流するどころか、互いを避け合うものだ。


 しかし、私はそこまで恋を食べることに頓着していないし、佐藤はもう恋を食べるつもりがないらしい。曰く、一生分の恋を食べたから、あとは食事をしなくても生きていける、とのことだ。


 恋魔は食べた恋の量に応じて寿命が増える。

 私も理論上は、今まで食べ続けた恋だけで、あと百年は生きられるはずだ。


 実際そんなに長く生きるかどうかは、要検討である。

 さすがに百年も生きたら飽きそうだ。

 力を使うと寿命は減るから、そこまで長生きはしないだろうけど。


「蜜柑ちゃんは最近どうですか? 無理してませんか?」


 佐藤は気遣わしげに聞いてくる。


「うん。いつも通り」

「……いつも通りが一番心配なんです。蜜柑ちゃん、いつもボランティアとか勉強ばっかりじゃないですか。もっと自分のこと、優先した方が絶対いいですよ」

「それも趣味だから」

「……むぅ」


 実際、趣味であることは間違いないのだ。

 成績トップを維持すれば、どんな人にでも勉強を教えられるし。ボランティアも、皆が快適な環境を作りたいという望みのためにしているに過ぎないのだ。

 だからそんなに心配しなくてもいいのに、と思う。


 私のことを思ってくれること自体は、嬉しいけど。

 なんというか、佐藤は悪魔とは思えないくらいお人好しだ。

 私も見習いたいものである。


「むくれないでよ。ほら、笑顔笑顔。佐藤は笑顔が一番可愛いんだから」


 私がにこりと笑うと、佐藤はちょっとだけムッとしたような顔をしてから、笑顔を返してきた。


 平和だ。

 自分が悪魔だってことを一瞬忘れそうになるくらいには。


 ふっと息を吐くと、近くから聞き慣れた足音が響いてくる。私はびくりと体を跳ねさせて、教室の窓枠に手をかけた。


「蜜柑ちゃん?」

「ごめん、佐藤。ちょっと出るわ」

「出るって……そっち、窓ですよ!?」

「平気平気。じゃ、また後で」


 私は周りの目がこちらに向いていないタイミングを見計らって、窓から飛び降りた。三階程度なら飛び降りてもダメージは受けないから、問題はない。


 私はそっと着地して、校舎裏まで移動した。

 そして、その場に座り込む。

 心臓がうるさいのは、いきなり三階から飛び降りたせい、ではなくて。


「……はぁ」


 春原の顔が見れない。

 昨日の電話のせいだ。あれのせいで、春原とどんな顔をして会えばいいのかわからなくなっている。鋭敏になった耳に放たれた「好き」の一言は、私の心を乱すには十分すぎた。


 結果、これである。

 朝からずっと、私は春原から逃げ続けている。


 いつまでもこんなことをしていたって仕方ないのはわかってるんだけど。でも、悪いのは春原だ。


 ……わかっている。これは完全に八つ当たりだって。

 またため息をつきそうになった時、ポケットの中でスマホが震え始めた。


 このタイミングでの電話ってことは、確実に。

 私は少し迷ってから、画面をタップした。


『蜜柑。どうして逃げるの?』


 いつもとは比べ物にならないくらい不機嫌な声がスマホ越しに聞こえてくる。


 春原のせいだって言えたらよかったんだけど、言えない。

 そんなこと言ったら、たった一言でここまで動揺しているって知られてしまうから。


 それはまずい。これ以上私の弱みを春原に握られるわけにはいかないのだ。それに、純粋に馬鹿馬鹿しいし、恥ずかしいし。

 ほんと、馬鹿じゃないのって自分でも思っている。


「逃げてない」

『じゃあなんで窓から急に飛び降りたの? 佐藤さん、めちゃくちゃびっくりしてたけど』

「私、定期的に窓から飛び降りないと蕁麻疹が出る体質だから」

『そんな体質ある!?』

「悪魔だからね」


 馬鹿げている。子供じみている。どうかしている。

 そんなのわかっているけれど、どうしようもない。春原と関わっている時の私は変だ。春原が変だから、それに影響されて私も変になっているに違いない。


『……賭け、しよっか』

「賭け?」


 いきなりだ。私は首を傾げた。


『そ。先に相手を見つけられた方の勝ち。負けた方は勝った方の言うことを一つ聞くってことで』

「……私が勝ったら、撮った写真全部消してとかでも、聞くの?」

『もちろん。結果は絶対だよ』

「なら、やる」

『じゃ、今からスタートね』


 てっきり通話を切るのかと思ったけれど、そうではないらしい。

 なんとなく私の方から切る気にもなれなくて、私はスマホを手に歩き出した。

 昼休みが終わるまで、まだ時間がある。


『蜜柑。蜜柑の好きな植物って?』

「え? んー……多肉植物とか?」

『好きな犬種は』

「ト、トイプードル」

『好きな食べ物』

「手作りのお菓子。……なんで質問攻めしてくるの?」


 私は学校の中を歩きながら、彼女の声に耳を傾ける。

 今ならまだ彼女は教室にいるだろう。


 さっさと戻って、彼女を見つけて、終わりだ。

 終わり、のはず。


『だって今日、全然話せてないから』

「……そんな私と話したいの?」

『話したいよ。もっと、蜜柑のこと教えてほしい』

「いつも私のこと、知ってるみたいに言ってるのに」

『まだまだ知らないこと、たくさんあるから。……手作りのお菓子が好きだって、初めて知ったよ』

「……」


 私はぴたりと止まった。

 いつもいつも、なんでも知っているみたいな感じで私に接してくるのに。


 彼女が前に言った、愛は相互理解という言葉を思い出す。私はここ最近の触れ合いの中で、彼女のことを少しずつ掴み始めている。


 でも、彼女の方は、まだ私のことを全然掴んでいないのかもしれない。

 写真を消してもらうことと、互いに理解し合うこと。どっちを優先するべきなのだろう。


 お互いのことをよく知れば、情も芽生えてひどいことはできなくなるんじゃないか?


 いやいや、さっさと写真を消してもらった方が——

 ああ、もう!


「……私の一番好きな場所で、待ってる」

『え?』

「私のこと先に見つけられるなら、見つければいいよ。……じゃあね」


 私は電話を切って、ある場所に向かった。





 学校の敷地内にある花壇。

 そこには数多くの花が咲いている。春や夏の花も好きだけど、この時期の花も、ある種の力強さを感じられて好きだ。


 私はベンチに座って、ぼんやり花を眺め始めた。

 春原は、来るだろうか。別に、来なくたって構わない。その時は私の方で彼女の気配を察知して、先に見つけて、この関係も終わりだ。


 そう思いながら、目を瞑る。

 しばらくそうしていると、背後から気配と足音が近づいてきた。それが春原ものだというのは、考えなくたってわかる。


 先に見つかったのは、私か。

 よくここがわかったな、と思う。私は目を開けた。いきなり振り返ったらびっくりするかと思ったけれど、その前に、何か温かいものが目を覆った。


「だーれだ」

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