第3話

 ふわりと、甘い香りがする。

 それはリップの香りではなく、きっと。


「やっぱり。色も香りも、蜜柑によく合ってる」


 さっきの真剣な顔からは一転して、柔らかな笑みを浮かべながら、彼女は呟く。


 声なのか、態度なのか、それとももっと別の、何かなのか。

 わからないけれど、正体不明の何かが私の胸をちくりと刺して、鼓動を速くする。どうしてと疑問に思う間もなく、彼女は私に笑いかけてくる。


「ね。手、繋いでいい?」


 今度は繋いでいいのか、聞いてくるんだ。

 こういう態度を取られると、無下にできなくなるじゃないか。断ったらなんだか私が悪者みたいになる気がする。

 いや、悪魔なんて悪者以外の何者でもないんだけど。


「……別に、いいけど。さっきも繋いでたし」

「……そっか。じゃ、失礼して」


 彼女は羽みたいに柔らかく、私の手を握ってくる。恐らく無意識に握ってきたさっきとは違うその力加減が、妙に気恥ずかしい。


 やっぱ駄目、と言おうにも。

 笑いかけられるとどうにも弱い。

 私はもしかしなくても、人の笑顔に弱いのかもしれない。


「……このまま駅、行くの?」


 私が尋ねると、彼女は首を振った。


「ううん。一個だけ、行きたいところができたから」

「……そ。じゃ、今度はそっちがエスコートしてよ」

「うん。優しくエスコートするよ」

「別に優しさは求めてないけどね」


 くだらない会話をしながら、二人で歩く。そういえば、こうして誰かと手を繋いで歩くのなんて、かなり久しぶりかもしれない。


 中学の頃は、一番仲良かった子と、どこに行ってもこうやって手を繋いでいたっけ。


 もう、あの子と手を繋いだ時の感触も、笑顔も、ほとんど思い出せないんだけど。


 朧げな記憶の中の彼女とは、きっと違う春原の手の柔らかさ。そこから感じ取れるものがあるのかは、わからないけれど。

 私は彼女にバレないように、少しだけ手を握る力を強めた。





 はぁ、と息を吐くと、瞬く間に白く染まっていく。

 春原の行きたいところというのは、ある意味学生らしいけれど、この時期はどうかと思う場所だった。


「やー、寒いねー」

「……なんで屋上なのよ」


 商業施設の屋上庭園。

 一月に訪れるには寒すぎるこの場所に、春原はおてて繋いで私を連れてきていた。正直に言えば、凄まじく寒いから今すぐ帰りたい。


 私はペットボトルを両手で握った。

 さっき買ったばかりだからまだ温かいけれど、掌がちょっと温かくなったって全身は寒いままだ。私は身震いした。


「十二月、一緒にイルミネーション見に行けなかったから」

「は?」

「ここならいつでも結構ライトアップされてて綺麗だしね。……それに」


 春原はバッグをごそごそして、何かを取り出す。


「蜜柑、騒がしいとこより静かなとこの方が好きでしょ?」


 にこりと笑って、彼女は私の手に取り出したものを載せてくる。それは、厚手の手袋だった。


「……はい、どうぞ。これ、結構あったかくていいよ」

「……なんで?」

「うん? 手、寒そうにしてたから」

「そうじゃなくて。なんで私が騒がしいとこ苦手だって思ったの?」


 実際、間違いではない。別に騒がしいこと自体が嫌いなわけではないけれど、人が多いところが苦手なのは確かだった。


 恋を目で見られる私は、多くの人が集まる場所に行くと目が疲れるのだ。


 いろんな形、色をした恋がひっきりなしに辺りを飛び交っているのを見ているとクラクラしてくるし、そもそも私は恋というものが嫌いだから。


 とはいえ、それを誰かに悟らせたことは一度もない。

 はず、なのだが。


「見ればわかるよ」


 答えになっていない気がする。

 そう簡単にわかるほど、私は表情と感情が直結していないはずだ。

 私の不満が伝わったのか、彼女はまた、にこりと笑った。


「頑張ったら、意外とわかるものだよ?」

「……じゃあ、私が今どんな気持ちでいるのか、わかる?」

「うん。私のこと、わけわかんないって思ってるでしょ」


 半分正解だ。

 しかし。


「不正解。正解は、手袋貸してくれてありがとう、の気持ち」


 私は手袋をしながら、ふっと笑った。

 春原はきょとんとした表情を浮かべた後、柔らかな笑みを浮かべる。


「……そっか。蜜柑がそういう顔してくれるなら、貸した甲斐があったよ」


 淡い光に照らされた彼女の表情は、信頼ならないものではなかった。

 気体みたいに掴めなくて、猫みたいに気まぐれだと思っていたけれど。意外とそんなでもないのだろうか。嘘か本当かわからない言葉はその実、全部心からの言葉で、私が深く考えすぎているだけ?


「私のこと、好きになった?」


 密やかな声。

 今私たちがいる場所よりも、もっともっと高いビルに見下ろされた彼女の表情は、やっぱり感情が読みづらいものだった。


 瞬きしたこの一瞬で、別人と入れ替わってしまったみたいに。

 あるいは、さっきの彼女から感じられた柔らかさは単なる錯覚だったのかもしれないけれど。

 結局、春原のことを少しでも掴むために遊びに誘ったはずなのに、昨日よりずっと掴めなくなった気がする。


 彼女の弱みを握らないと、恋がどうのとずっと迫られ続けてしまうというのに。


 私が誰かに恋するなんて、ありえない。

 まして、目の前にいるこの怪しい女には、絶対に。


「なるわけないでしょ。そもそもあんた、なんで私にそんな、恋してほしいわけ?」

「あはは、どうしてだろうね?」


 子猫みたいに目を細めて、彼女は笑う。

 やっぱりこいつは、気体だ。


 一日一緒に遊んだくらいでわかるほど単純ではないし、その言葉はきっと、心からのものではない。


 読めない。

 ここまで読めない人間は、初めて会ったかもしれない。


 私はもう、人間に深入りするつもりなんてない。ないけれど。その懐に入り込まないと、きっと弱みなんて握れない。


 現実的に考えて恋なんてできない以上、脅しを跳ね除けるには弱みが絶対必要だ。

 私はぎゅっと、ペットボトルを握った。

 べき、と音がする。


「あっ」

「え。あ……」


 どうやら、力を込めすぎたらしい。

 ペットボトルは瞬く間に粉々になって、中の液体が流れ出す。


 手袋が濡れて、気持ち悪かった。

 いや、それ以上に。


「……ごめん。手袋、汚しちゃって。明日洗って返すよ」

「大丈夫大丈夫。それより手、平気? 怪我とか……」

「しないよ。したとしても、すぐ治る。悪魔だからね」


 私は笑いながら、手袋を外した。

 せっかく貸してもらったのに。

 私はちょっと気まずくなって、乾いた笑みを浮かべた。


 力加減がうまくいかなくなることなんて、最近はなかったのだが。感情的になったらまずいよな、と思う。頭に血が上りやすいのは私の悪いところだ。反省反省。

 などと、思っていると。


 すっかり冷たくなった手が、急激に温かくなる。

 見れば、いつになく真剣な顔をした春原が私の手を、両手で包み込んでいた。私は目を丸くして、彼女を見つめる。


「春原?」

「蜜柑は……」


 何かを言いかけたかと思えば、彼女は私から微かに目を逸らした。さっきより強い力で握られた手は、何か大事なことを言おうとした証拠、のような気がするけれど。


 それを掴もうとしたら、きっとすり抜けてしまうのだろう、と思う。

 春原の実体は、遠い。

 一体春原蒔月とは、どういう人間なのだろう。


「……ねえ。あれ、見に行かない?」


 私が言うと、彼女は首を傾げた。


「植物の店?」

「そ。私、意外と観葉植物とか多肉とか、好きなんだよね」

「……そう、なんだ。うん、じゃあ、見に行こっか」


 笑ったかと思えば、真剣な顔をして。笑みにも二種類あったり、言葉もいまいち信用できなかったり。


 春原は、変な人だ。

 私は一ヶ月前から翻弄されてばかりな気がする。


 何か、特別な事情があって私に近づいたのかな。なんて思うのは、深読みのしすぎだろうか。


 うむむ。

 なんなんだ、ほんとに。


「いい植物あるといいね、蜜柑」


 そう言って笑う彼女は、私のよく知っている春原で、まだまだ全然掴めていない春原でもあった。

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