【第二章】4. たい焼き
境内の奥は、雑木林になっていた。
お祭りの太鼓や笛の音は聞こえていたが、提灯の灯りはここまで届いておらず、辺りは薄暗い。
たい焼きは、あっと言う間に木陰の闇に紛れ、見失ってしまった。
他には誰の姿も見えない。あかりは、急に心細くなった。
「お嬢さん、こんなところに一人で、どうしたんだい? 迷子かな」
後ろから声がして、あかりは振り返った。
そこには、猿のお面を被った男が立っている。
お面の顔は笑っているのに、何故だか、うすら寒いもの感じて、あかりは怖いと思った。
「怖がらなくていい。一緒にお母さんを捜してあげよう」
猿があかりの方へと手を差し伸べながら近づいてくる。
その背後に、黒い影のようなものが見えた。
近くに光源はないのに、周囲の暗さよりも尚暗い闇を背負っている。
お面の目の位置には、二つの黒い穴が開いていて、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
あかりは、猿から離れようと一歩ずつ後ろへ下がっていった。
しかし、すぐに背中が近くにあった木にぶつかる。
心臓がどくどくと音を立てているのが耳の奥から聞こえる。
――中には悪い霊もいるから、そういうのとは目を合わしてはいけないよ。
――一見、どんなに優しそうに見えても、急に態度を変えることもあるんだ。
おじさんの言っていた言葉を思い出す。
同じ言葉をかけられたのに、おじさんのことは怖いと思わなかった。
けれど、今目の前にいる猿は、近づいてはいけない、とあかりの本能が警告している。
あと一歩で猿の手があかりに届くところで、突然、どこからか黒い猫が現れて、猿のお面を引っ掻いた。
「ぎゃあっ、……な、何をするんだ……このクソ猫めっ」
猿は、お面をつけた顔を抑えながら、悪態をつく。
その口調は、先程までの猫なで声とは違い、低くて乱暴な恐ろしい声をしていた。
黒猫は、あかりと猿の間の地面に、音を立てず降り立った。
振り返った黒猫の口には、たい焼きが咥えられている。
「あ、あたしのたい焼き」
黒猫の金色の目が一際大きく見開かれた。
まるで、あかりに逃げろと言っているようだ。
「くそっ……、よくも邪魔してくれたな」
猿は、お面を正すと、あかりと黒猫に向かって両手を上げ、襲い掛かってきた。
先程まで背後にしか見えなかった影が、今は猿の全身を黒い霧で包んでいた。
辺りの空気が一層重くなる。あかりは、息苦しさを感じて胸を押さえながら、思わず叫んでいた。
「いやっ、……助けて、お母さん」
その時だった。
突然、リーン、と鈴の音が聞こえた。
それは、暗く重たい空気を裂くように、清らかな澄んだ鈴の音だった。
気が付くと、あかりが押さえていた胸元が白く光っている。
リーン、と再び鈴の音が聞こえた。
どうやら音は、あかりの胸元から聞こえてくるようだ。
「な、……なん、だ。身体が…………動かん……」
猿は、両手を上げたままの状態で固まっていた。
まるで金縛りにでもあっているかのようだ。
見ると、黒猫まで固まって動きを止めている。
あかりは、服の下から光っている物を取り出した。
それは、赤いちりめんで作られたお守り袋だった。
あかりの母が作ってくれたもので、いつもあかりが肌身離さず首から下げて身に着けていた物だ。
(お母さんが、あかりを守ってくれたの?)
あかりは、地面で固まって動けなくなっている黒猫を抱き上げると、胸に抱えて、その場を逃げ出した。
賑やかな屋台が並ぶ境内へ戻ってくると、あかりは、足を止めて、後ろを振り返った。
どうやら猿は追って来ていないようだ。
ほっ、と安心して息を吐くと、へなへなとその場に座り込んでしまった。
『ちょいと、いつまでうちを抱いとるんよ。はよぉ離さんかいな』
あかりは驚いた。自分の腕の中で必死に逃れようともがいている黒猫から声が聞こえたからだ。あかりが腕の力を抜くと、黒猫は、ひゅっと地面に飛び降り、あんこのついた顔を前足で洗いはじめた。
「黒猫さん、しゃべれるの?」
『あんたら人間が口を動かして喋るんとはちゃうけどな。
まぁ、うちくらいのレベルになれば、人間と意志を交わすことくらい朝飯前や』
黒猫は、自慢げに髭の手入れをしている。
「助けてくれて、ありがとう」
『助けるつもりはなかったんやけどな。
……まぁ、美味い魚、食わしてもろたけん。そのお礼や』
やはりさっき黒猫が咥えていたのは、あかりのたい焼きだったようだ。
あげたつもりはなかったのだが、あかりは、黒猫が可愛かったので、黙っておくことにした。
『勘違いするなよ。うちは、人間が大っ嫌いなんや』
黒猫が立ち上がって、威嚇するようにあかりを睨んだ。
その時、あかりは、黒猫の後ろ脚が一本足りないことに気が付いてはっとした。
「足、どうしたの。怪我したの? 痛い?」
よく見ると、身体中傷だらけだ。もしかして、さっきの争いで怪我をしたのだろうか。
『ああ、ちゃうちゃう。これは、さっきついた傷やないで。人間にやられたんや。
生きとる時にな。今は、もう痛ぁない。……まぁ、たまに傷がうずくことはあるけどな』
何でもないことのように黒猫が言う。
あかりは、悲しそうな顔で、黒猫の傷にそっと手を触れた。
「痛いの痛いの、飛んでいけ~」
『……なんや、それ』
「おまじない。お母さんが教えてくれたの」
黒猫が照れたように顔を背けた。
『それにしても、あんた、けったいなもん持っとるな。
そんな物騒なもん、どこで手に入れたんや』
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