【第一章】2. 名前を言ってはダメ。

 バスの中は、冷房が効いているのか涼しく快適だった。

 少し寒いくらいで、あかりは半袖から覗く腕を掴んで身震いした。


 母が乗っていないだろうか、と車内を見回す。

 席はほぼ満席状態で、年老いた老人が大半だったが、全身に包帯を巻いて顔の見えない人や、腕や足など体の一部が欠けている人、あかりの父親とそう年の変わらない人もいた。


 あかりは、そこに母の姿がないことにがっかりしたが、すぐ後ろでバスの扉が閉まる音を聞いて、座れる場所を探した。

 その時、座っていた一人の男の人と目が合った。

 濃鼠色の軍服に身を包んだ四十前後くらいの男で、石のように固い表情と視線で睨むようにこちらを見ている。


 あかりは慌てて目を逸らすと、彼から離れた後部座席の真ん中に僅かな隙間を見つけて、ちょこんと腰を降ろした。

 バスは、あかりが座るのを待っていたかのように、ゆっくり動き出した。

 あかりは、窓の外を見たが、真っ暗で何も見えない。


「お嬢ちゃん、お菓子食べるかい」


 近くに座っていた老婆が差し出すお菓子を、あかりは首を横に振って断った。

 すると、ジュースは、飴は、みかんは、と四方八方から白い手が差し出される。

 皆、一様に白い顔に白い手をしていて、体が半分透けて見える。


 一人の老爺が自分の目玉を一個手に取り出して見せた。

 笑った口からは、歯が一本もないのが見える。

 どうやらあかりを笑わせようとしているらしい。

 その隣では、頭に大きな杭が刺さったまま平気な顔で笑っている人もいる。


 そんな不思議な人たちに囲まれていても、あかりは少しも怖いとは思わなかった。

 他の人には見えないモノが自分だけに見えることにあかりは気付いていたが、それはあかりにとって当たり前のことで、驚くことでも怖がることでもない。


「お母さんをさがしているの」


 あかりが怖いのは、突然母親が消えてしまったことだった。

 あかりの言葉を聞いて、周りにいた老人たちが口々にえらいねぇ、かわいいわぁ、と言い合う。

 彼らの目から見てあかりは、可愛い孫のように見えるのかもしれなかった。


「お名前は、なんて言うの?」


 一人の老人にそう聞かれて答えようとし、少し躊躇した。

 知らない人に名前を教えてはダメよ、と母が言っていたのを思い出したからだ。

 聞いてきた老人は、とても優しそうな笑顔であかりの返答を待っている。

 近くにいた人たちも同様に、あかりの答えを待ってじっと見つめていた。

 彼らの表情や態度から、特に悪意は感じない。

 あかりが名前を答えようと口を開いた時、突然すぐ傍から怖い男の声が降って来た。


「答えちゃいかん。自分の名前を答えちゃ駄目だ。帰れなくなるぞ」


 あかりの目の前に、古びた軍服を着た男の人が立って、あかりを怖い顔で見下ろしている。

 バスに乗った時に目が合った人だとわかった。

 あかりが答えないでいると、その男は、あかりの隣に座っていた老人を睨みつけて席を立たせ、自分がそこに腰を下ろした。

 席を立たされた老人は、男を不満げに見やったが、男の威圧感に負け、渋々と空いた席へと移動していった。


 あかりは、体を縮めて男から距離を取ろうとしたが、元々僅かな隙間に腰を下ろしているので、それ以上動けるスペースがない。

 そんなあかりの様子を見て男は、あかりを怯えさせないよう口調を柔らかくして言った。


「名前を答えてはいけないよ。帰れなくなってしまう。

 見たところ、まだ君は生きているようだからね」


 最後の方は、あかりにだけ聞こえる声でこっそりと囁いた。

 その口調には、あかりを思いやる男の気持ちが感じられて、あかりは少しだけ肩の力を抜いた。


「生きている? あたし、みんなと違うの? おじさんは?」


 あかりの質問に、おじさんは頷いてみせた。


「そうだ。おじさんも、ここにいる君以外の皆は、死んでいるんだ。

 “幽霊ゆうれい”というやつだな」


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