【第六章】生きるということ

【第六章】1. 狐の子の記憶

 あかりは、目の前の変わり果てた光景を見て愕然とした。

 そこには、誰の姿もない静かな寂れた横丁の姿だけがあった。美味しそうな食べ物の匂いもしなければ、店先で“忘れ薬”を飲み続ける愉快な人たちの姿もいない。机の上にあった食べ物や皿が床の上に落ち、椅子はひっくり返っている。

 あかりがここへ来た時に見た横丁の姿は、どこにもない。皆、もう死に神に狩られてしまったのだろうか。あかりがどこから捜そうかと辺りの様子を伺っていると、ふと背後に何かの気配を感じた。


「見つけた。こんなところにいたんだね。

 ずっと探してたんだよ」


 あかりが振り返ると、そこには、狐の子が一人で立っていた。

 ほっとするのも束の間、あかりは、あることに気が付く。

 狐の子の背後に、黒い靄がちろちろと見えるのだ。


「どうしたの、早く一緒にここから逃げよう。

 あいつら、なんとか巻いたけど、いつここに戻ってくるか分からないよ。

 ぼく、もっといい場所を知ってるんだ。案内してあげるから、一緒に行こう」


 そう言ってあかりの方へ狐の子が手を差し出した。

その手からは、神社で会った猿の面を被った悪霊と同じ気色を感じた。

 あかりが一歩後ろに後ずさると、不思議そうに顔を傾げて狐の子がどうしたの、と尋ねた。


「おじさんは? 女将さんや、とっくりさんも……みんなを置いて行けないよ」


 狐の子は、なぁーんだ、そんなことか、と笑って言った。


「大丈夫、皆無事だよ。だから一緒に行こう。

 ぼくがみんなのいるところへ連れていってあげる」


 嘘だと思った。

 少なくとも、とっくり男は、あかりの目の前で死に神に魂を狩られてしまっている。

 あかりがふるふると首を横に振る。

 狐の子は、あかりがこちらへ来るつもりがないと解ると、差し出していた手を力なくぶらんと下ろした。


「どうして誰もぼくの言うことを信じてくれないんだ」


 それは、狐の子が抱えていた心の闇そのものだった。


「君ならわかってくれると思ってたのに……」


 狐の子の身体から黒い煙のような靄が沸き上がる。

 あかりは、逃げることもできず、一瞬で黒い靄に包まれてしまった。

 視界は一切なく、重い、重すぎる闇だった。息をすることもできない。


『一見、どんなに優しそうに見えても、急に態度を変えることもあるんだ。

 だから、幽霊には、決して心を許してはダメだよ』


 おじさんの言葉を思い出す。

 あかりは、胸元にあるお守りを取り出そうとしたが、身体が石のように固まって動かない。

 それは圧倒的な〈死〉というものの闇だった。


 暗く、冷たい。恐怖しか感じない。

 もう息が続かない。あかりは、自分の意識が薄らいでいくのを感じた。


 その時、何かが空を切る音がした。

 同時に、あかりを包んでいた重くて暗い闇の靄が霧散していくのがわかる。


 一瞬、あかりの頭の中に、8歳くらいの男の子の姿が浮かんだ。その男の子は、とてもいたずらっ子で、よく母親に叱られては、泣いていた。まるでその男の子の記憶の一部があかりの中に吸い込まれたかのような感覚だ。


 あかりは、無意識のうちに息をしようと口を開いていた。胸いっぱいに空気を吸って、反動で咳き込む。胃の奥から酸っぱい液体が込み上げてきて、その場でむせるように吐き出した。


「なんだ、こんなところに生きた人間がいるぞ……いや、半分死にかけているな」


 あかりがゆっくりと息をできるようになってから振り返ると、そこには黒いフードを目深に被った死に神の姿があった。フードで顔は見えないが、大きな黒く光る鎌を腕に抱えている。

 あかりは、ごくりと唾を呑み込んだ。


「あなたは、死に神?」


「そうだ」


 よく見ると、その死に神は、たくさんのお面を鎌の先にぶら下げていた。ひょっとこ、おかめ、天狗……猿のお面もある。どれもあかりが神社のお祭りで見たことのあるお面ばかりだ。

 あかりの視線がその中にある一つのお面にくぎ付けになった。狐のお面だ。


「そのお面……狐の……私くらいの男の子が着けてた?」


 あかりは、震える声で尋ねた。よく見ると、先程まですぐ傍にいた筈の狐の子の姿が見えない。まさか、と思いつつも、よく似た他の誰かの面だと言って欲しかった。

 だが、死に神は、狐の面とあかりを見比べると、何でもないことのように言ってのけた。


「ああ、そう言えば、お前くらい若い魂だったか。

 可哀想に。父親の虐待で殺された子だよ」


 あかりは、きょとんとした顔で死に神を見つめた。


「ぎゃくたい……?」


「親が子供を殴ったり蹴ったり、しまいにゃ殺しちまう。

 聞くのも胸糞悪くなるような話だが、まぁ、よくある話さ」


 あかりは、狐の子の話と違うことに、僅かな希望を抱いた。


「じゃあ、その子は私の知ってる狐くんとは違うと思う。

 その子のお父さんは、とっても優しくて、いつも遊んでくれるって言ってたもの」


 そうであって欲しい、間違いであって欲しい、とあかりは思った。

 死に神は、そうかい、とそれきり興味を失くしたように押し黙った。


「その子は、どうなったの?」



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