【第五章】死に神

【第五章】1. 泣き女

しくしくしく……


 広間の隅で、髪の長い女が一人、膝を抱えて泣いている。楽しげな雰囲気がぶちこわしだ。


「近寄らない方がいい」


 というみんなの制止を振り払い、あかりは泣き女に近づいた。


「ねえ、どうして泣いているの?」


 泣き女は答えない。しくしくと泣いている。


「私、さっき大きな声で泣いちゃったでしょう?

 そしたら、周りのみんなも泣き出しちゃって驚いちゃった」


 やはり泣き女は答えない。


「一人で泣くのは悲しいもの。

 私もね、自分が一人だと思ったら、ますます悲しくなっちゃった。

 だから……もし良かったら、あなたが泣いている理由を教えてくれない?

 私が一緒に泣いてあげるから」


 泣き女は、やっと顔を上げると、ぽつりぽつりと、それまであった自分の身の上を語り出した。


「私、とっても愛していた人がいたの。

 でも、彼は私を捨てて、他の女のところへいった……それで、悲しくて、悔しくて、死にたいと思ったわ。

 それで……死んだの」


「死にたくて、死んだの?

 それなのに、どうして泣いているの?」


「どうしてかしら……きっと、まだ死にたりないのね」


「それはきっと、あなたが本当にやりたい事じゃなかったからだわ。

 だって、本当に死にたいと思って死んだなら、悲しいはずないじゃない。

 きっと嬉しくて、皆みたいに笑っているはずだわ」


 あかりの言葉に泣き女がはっと顔を上げる。


「そうね……そうよ、そうだわ。

 私、本当は死にたくなんてなかったんだわ」


 そして、一層強く声を上げて泣き出した。


「私、私……ずっと後悔していたのね!

 本当は死にたくなんてなかった!

 ああ、どうしましょう!」


 死んだって良いことなど何もなかったのだ。

 あかりは、考えた。


「死んだ人が生き返るには、どうしたらいいのかしら」


 あかりの問いに、広間がしんと静まり返った。

 誰もがその名を口にすることを恐れているように見える。

 その沈黙を破ったのは、意外な人物だった。


「そりゃあ、死に神に魂を狩られるしかないね。そして、来世で生きるのさ」


 皆が一斉に声のした方を向いた。縁側に腰かけて、優雅にグラスを傾けているのは、〈幽生団〉のベニだった。


「ベニさん、いらしてたのね」


「ああ、邪魔してるよ、女将」


 ベニは、妖艶な笑みを浮かべてグラスを月に掲げて見せた。グラスの中身は、琥珀色に輝いていて、まるで月の雫のようだ。


「死に神って?」


 あかりがその名を口にすると、周りにいた幽霊たちは、元々青白い顔を更に青くして、震えあがった。中には、逃げ出す者までいる。


「その名をあまり口に出さない方が良いよ、お嬢さん。

 あたいら幽霊たちにとっちゃ天敵の名前だからね」


 小さな鼠にとっての猫、猫にとっての犬、犬にとって……は、なんだろうね、犬に天敵なんていたかしら、とベニが首を傾げた。


「悪い人なの?」


 それでもよくわからないあかりに、ベニがどう説明しようかと悩んでいると、おじさんが横から口を挟んだ。


「死に神というのは、死んだ人間の魂を狩って、天界へ連れて行くのが仕事なんだ。

 狩られた魂は、記憶を消されて、再び新しい命として生まれ変わる。

 それは、私たち幽霊にとっての〈死〉を意味する」


 おじさんは、暗い顔で声を潜めて言った。


「やめろっ、それ以上その名を口にするなっ。

 やつらがここを嗅ぎ付けたらどうするんだ」


 誰かが叫んだ。どうやら、幽霊たちとって、よほど恐ろしい存在らしい。

 あかりは、ある考えに思い当たり、ぽつりとつぶやいた。


「もしかして、あたしのお母さんも……その死に神さんに連れて行かれちゃったのかな」


 おじさんは、あかりの言葉にほんの少し眉をひそめただけで、あまり驚かなかった。

 死に神の存在を知っていたおじさんのことだ、既にだいぶ前から、その考えに思い当たっていたのだろう。

 いつかその考えに至ったとして、女の子が少しでも傷つかないで欲しい、とだけ思っていた。


「ねぇ、どうしたら、その死に神さんに会えるのかしら」


 ぱっと顔を上げたあかりの目は、希望を失ってはいなかった。

 それを見て、おじさんは、言葉を失う。遠い昔、どこかでこんな目を見たことがあるような気がした。


 記憶の彼方に忘れ去ってしまったものが今ここにある。決して忘れまいとして、忘れてしまった大事な何かがあった筈なのに、それが何だったのか思い出せない。それが肉体としての死を迎えた者の宿命でもある。


 諦めることを知らない無垢な女の子の視線が胸に突き刺さる。

諦めなさい、と言うことは簡単だ。

 でも、それは同時に自分自身へ向けて放つ言葉でもある。


「お嬢ちゃんの気持ちはわかる。だが、これ以上は……」


 言葉を濁すおじさんに、あかりは無垢な視線を投げた。


「おじさんも、何かを捜しているの?」



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