003-7 夏堀 恵

 ――『このっ、……人殺し!』


 そう言われたことを、抽冬は今でも忘れていない。

 いや……忘れるつもりはさらさらなかった。

「被害者はずっと、傷付いたままやられっぱなしでいいのか? って考えてたことがあってさ。雇われのバーテンやりながら、趣味で小説とか色々書いてた時に……昔の経験こと題材ネタにしたんだよ」

 全てのグラスを拭き終えても、仕事は終わっていない。話しながらも、抽冬は下げられたグラスを洗い続けた。

「別にいまさら訴えるつもりもないし、やったところで利益にならないどころか、絶対加害者側相手からも馬鹿にされるし……だったら言い逃げする位、別にいいだろう?」

「それで相手が自殺した……と?」

「正確には自殺しかけた、だけどね」

 夏堀が頬杖を付きながら投げてきた問いに、抽冬は蛇口の水を止めてから答えた。

「中には女の子もいてさ。向こうは順風満帆な家庭を築いてたみたいなんだけど……俺が書いたエッセイで、全部ぶち壊しになっちゃったんだって」

「えげつないな……どんな書き方したんだよ」

 服を着終えた秋濱が、そんな感想を漏らしてくる。それに抽冬は再びグラスを拭きながら、さらに補足した。

「まあ……相手が自殺しかけた後は精神崩壊までいっちゃって、今は入院生活だけどね」

「そりゃあ、相手の家族に恨まれるわね……」

「相手の夫にも言われたよ……『この人殺し』って」

 しかし抽冬は、全部のグラスを拭き終わるまで手を動かしていた。


 ……特に大きく、感情を揺さぶらせないまま。


「おかしな話でしょう? 『じゃあ、何で訴えないんだ?』って言ってやったよ」

『いや、おかしいのはそっち』

 だが抽冬は、首を傾げるだけだった。

「何で? 俺が書いた作品に法的根拠なんてないし、事実ならそうだと証明した上で訴えればいいのに……」

「なるほど……つまり相手は、『泣き寝入り』したってことね」

 訴えれば過去の罪業を証明することになり、しなければ一方的に傷付けられるだけで終わる。

 たとえ故意でなくとも……いや、故意・・でない・・・からこそ、相手は何もできなくなってしまったのだ。

普通なら・・・・読まないし、読んでも無視するもんな……」

「そもそも……その手の文章読むような人間なら、最初から相手を傷付け虐めたりしないでしょう」

 本を読むことで、相手の人生に共感することもある。中には相手が何をされたら傷付くのかを、理解させられる場面にも遭遇することがあるだろう。

 だからというわけでもないが……その手の読書家が、相手を傷付け虐める選択肢を取るとは、考え辛かった。

「まあ、故意じゃない方が先にダウンしたってだけの話だよ。また思い出したら書くつもりだけど……もう、同窓会には呼ばれないだろうね」

「行く気ない癖に……何言ってんだか」

 会計を済ませる秋濱も同類だということを、抽冬は知っている。運動部にしては珍しく暗い印象キャラで、友達自体がほとんど居なかったことを。

「まあ、それなら安心ね……私、あんたに対して何もやってないし」

「というより……」

 帰宅待ち状態となった夏堀に、いや二人に対して……抽冬は溜息と共に漏らした。


「単に名字が『春夏秋冬』で揃ってただけじゃん。当時は付き合い自体面倒臭がって、ほとんど絡んでなかったし……」


 それが今では、こうやって顔を合わせているのだから……時の流れとは不思議なものだと、抽冬は無意識に頭を掻き出した。

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