002-4 桧山 弥咲

 抽冬は夜に働いているが、桧山は違う。普段は近くのスーパーでパート勤めをしていた。ちなみに時給は千円。この辺りの相場を考えれば、少し高い位である。

「じゃあ、俺は寝るから……気を付けて」

「はいはい、あなたもお休みなさ~い」

 頬に口付けでもしようとしたのだが、抽冬にすげなく躱されてしまう桧山。

 軽く溜息を吐いてから、仕方がないと身支度を整えた桧山は、真っ直ぐにパート先であるスーパーへと向かった。

「さて……今日も頑張りますか」

 抽冬の収入であれば、別に桧山が働く必要等ない。それどころか、彼女一人の人生を買い取ることだってできる。それでも、二人は今の生活を改めることはなかった。




 ……桧山は、バツイチだった。

 なんとなく進学し、なんとなく就職し、なんとなく告白されて付き合い……何人目かの恋人と結婚した……なんとなくで。

 子供は授からなかったものの……比較的順調だった夫婦生活は、半年もしない内に限界が来てしまう。

 原因は夫の不倫や言葉や態度による嫌がらせモラルハラスメントではない。いや、桧山が気付いていなかっただけで、普通に行われていたのだが……


 桧山はかつて、AV女優をしていたことがある。


 かつて付き合っていた恋人の一人がアダルトAビデオV制作会社の社員で、『他に女優が居なかったから』という理由で仕方なく……というよりも、彼女にとってはなんとなく・・・・・で、出演したのだ。エキストラではあったものの、協力したのは一回だけではない。

 けれども、その制作会社はまともなところではなかったらしく、あっさりと倒産。社長は逮捕され、当時の恋人は桧山を置いて(彼女の出演料ごと)高跳びしてしまっていた。自然消滅した後も何人かの人と付き合い、最後に結婚したその伴侶に……その過去がばれてしまったのだ。

 自分の不都合な事実だけを隠し、相手にだけ非を認めることを強要する。その被害者が桧山……かつては別の名前で生きていた女だった。

「お疲れ様で~す」

 パートを終え、夕暮れの中を桧山は勝手に住み込んでいる抽冬の自宅へと帰っていく。

 ……抽冬と出会ったのは、偶々だった。

 今みたいに明確な目的を持ってではなく、金銭も行く当てもなく彷徨っている内に、偶々辿り着いただけなのだ。

『とりあえず、食べなよ』

 ビルの陰で蹲っていた桧山に、抽冬はバーの賄い飯を差し出した。

 ただ、食事を与えるだけの行為だった。家に上げるどころか、当面の資金を手渡すこともしない。偽善以前の、ただの気紛れに過ぎなかった。

 だがそれでも、桧山は野良猫のように、そのビルの下て蹲る生活を送っていた。

 時折、抽冬が家出少女相手に与えるバイト・・・に交じりながらも、桧山はズタボロの人生を歩むことにした。


 もう、なんとなく・・・・・ではなく……明確な意思を持って。


 多少の整形を施し、偽造された新しい身分桧山弥咲の戸籍を得て、新しい人生を歩めるようになった。

 それを助けてくれたのが……ただ食事を与えてくれた、抽冬だったのだ。

 バイトはきちんとした契約。新しい身分もそのバイトで、自分で稼いで貯めた賃金。その上で真っ当な手段で生活費を稼ぎ、抽冬と同棲している。

 それが、桧山が今度こそ、なんとなくではなく自分の意思で決めた、残りの人生の生き方だった。

 ほとんど野良猫が懐くような感覚だが……初めて人生を謳歌している瞬間だと、桧山は今の生活に満足していた。

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