001-1 秋濱 敏行

 準備を終えた抽冬は、階段を登って一階の扉へと向かった。

 客にとっては傍迷惑なことに、ドアノブには『OPEN/CLOSE』の札が掛けられている。『ギャングの隠れ家ハイドアウト』という心理的に開け辛い扉が、物理的にも煩わしいものと化しているが、改善される見通しはない。一般人避けにもなっているので、おそらくはずっとそのままだろう。

 抽冬は扉を開け、ドアノブの札を『CLOSE』から『OPEN』へと変えた。


 これにて古びたビル地下一階のバー『Alter』が、開店となった。


 店内に戻った抽冬は、ポケットに手を入れながら、悠々と階段を降りていく。

 再びカウンターの裏に戻ったのは良いが、開店してすぐに客が来るわけではない。特に決まった営業時間がないのが、一番の原因だった。オーナーの意向か予約がある時に営業さえしていれば、問題はないのだ。

 だから営業時間は、抽冬の好きに決められた。通常の裁量労働フレックス制とは違い、固定出勤時間コアタイム自体が存在しない。強いて挙げれば、『オーナーの都合』で決まるものの、大まかな時間が決まっているシフト制だった。

 今日は三十分後に客が来る。それまでに営業を開始し、相手が帰った後の適当なタイミングに閉店すれば、それだけで一定の給料が手に入る。おまけに勤務時間内は、必要な仕事さえしていれば、『後は好きにしていい』という緩すぎる職場環境。

 オーナーの『本業』が犯罪行為に該当するものであること以外は、ある意味では理想の環境だった。かつての勤め先とは、比較にもならない。

「まだ、時間はあるな……」

 カウンター裏で、抽冬は椅子を引っ張り出して腰掛けた。

 抽冬は自身を、バーテンダーの蔑称である『バーテン』だと思っている。実際、バーテンダーに必要な要素はおそらく足りず、また学ぶ意欲も持ち合わせていない。

 ゆえに抽冬は、『バーテン』という肩書を背負うことを良しとしている。だからバーテンダーらしく、立ち姿でグラスを磨くなんてことはしない。客がいない店内であれば、なおさらだ。

 だからいつも、カウンターの裏で趣味に走るなんてことが当たり前に行われている。今日は客も来るので、椅子に腰掛けて読書でもしていようと、抽冬は一冊の本を取り出した。

 ここでハードボイルドな推理小説でも読めば格好が付くのだろうが、残念なことに……抽冬が読んでいるのは、異世界転生系のライトノベルだった。




 そして予定通りの時間に、扉の開閉音がした。

 ゆっくりと階段を降りてくる客に対して、抽冬は静かに本を閉じ、椅子から立ち上がって声を掛ける。

「……いらっしゃい」

「…………」

 階段から降りて来た男性客こと秋濱あきはま敏行としゆきは、体格の良い見た目とは裏腹に陰気な表情を浮かべながら、カウンターの椅子へと腰掛けた。

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