第4話 バス

 一度あることは二度ある。

 

 歩くなんて、まっぴら御免だった。

 タクシーを呼ぼうにも匂いを嗅がれるのは恥をかく以前に、人間としての大事な何かを失ってしまうため、消去法でバスに乗って帰ろうと考えるのは、頭が良いのかもしれない。


 賢者も真っ青になるくらい、天才的な発想だ。


 だが賢者はさらに先のことを予想していたから真っ青になったという事に、今になって気づいてしまった。


 今の状況を例えるならワニの口の中にいる鳥のようなものだ。

 いやもっと別の上手い例えがあるかもしれないが、今の私にとってはそのような細かいことは、文字通り死ぬほどどうでもいい、うん、つまり死にたい。


 そんな冗談のようなものでしか今をごまかせない。


 そんな名状しがたき混乱と絶望と疑問を味わっている間、後ろの方で扉が閉まった。


 S系統のバスの中には私と正面にいる女性。

 運転手以外は誰もいない。

 いわゆる二人だけの密室。


 仮にここでどちらかが、どちらかを殺害しようと試みても、何一人として止める者はいない。


 運転手さんが私を睨んできた。

 いや、バイアスが掛かっているだけかもしれない。

 私以外の場所から、あの臭いがするのも気のせいだ。


「先程は何も言わずに出て行ってしまい、申し訳ありませんでした」


引きつった笑いを浮かべている。

無理もない、気狂いが去ったと思ったら、戻ってきたのだから。


「……えっと、同性ですので、そんな気にすることないですよ。私だって小さい頃に何度かありますし、仕方のないことです」


「すみません。でも、気まずいと感じるのは分かりますが、一言お声かけをいただければ私達はしっかりと対応しますので、その、なんでしょうか、こんな偉そうに言っても医者の不摂生みたいな所なんですが」


「そこら辺はご愛嬌です」などと付け加え、バスは走り出した。


 サスペンションによってふわりと揺れるバスの中、適当な座席に座ってしばらくすると運転手の方から声が聞こえてきた。


「えっと、間違っていたらすみません、高校ってどこにいっていました?」


「西工ですよ」


「西工高校ですか、えっと、もしかして」


「うん、まあ」


 赤信号に差し掛かりバスが一度大きく揺れた。


「久しぶりですね」


 窓に映る景色は真っ黒で代わり映えしないもの。


「高校ぶり、バスの運転手やってたなんて、てっきり電気系の大学に行くかと思ってたよ、あと、あれはほんとにごめん」


「再会がこれって」とだれも聞こえないような小さい声で言った。


「自分が得意な分野に進むというのは退屈で、そのうち刺激がなくなってゾンビになってしまいますから」


「はあ」


 ゾンビねえ、今の私には無縁だな、いや、そうでもないかもしれない。

 外で、あいつにもてあそばれていたとは言え、外で脱ぐのは倫理観という物が全くない。

 故にゾンビか。


「それに、こうやって夜のバスを運転していると、貴方みたいな変な人に出会えますから。再会があれっていうのは少し悲しいです」


「いや、ほんとにごめん」


「大変でしたよ、雑巾一つありませんでしたから、偶然あったタオルで床を拭いて……そうだ、連絡先でも交換しません? この借りは返してもらわなければなりませんから」


「ごめんね、最近スマホを落としてダメにしちゃって」


 その一言を運転手に言うとバスのエンジン音で少し聞き取りずらかったが「ふふっ」と小さく笑うのが聞こえた。


「ほんと、そういうところ変わりませんね、かわいそうな運転手がここに一人、悲しく嘆いていますよ」


 話し方が純文学みたいだと思った。


「高校のころを思い出しますね。あなたがいじめを止めてくれたのは今でも記憶にありますよ」


「やめてよ、恥ずかしいって」


 彼女は「昔話はやめましょう」と言って「暖房はこれくらいが丁度いいですか?」と聞いてきた。


「大丈夫」


しばらく無言の時間が流れた。


「正直意外でした」


「貴方だって苦労しているのですね、貴方って私にとっての憧れだったんです」


「と、いいますと?」


「……今となっては、恥ずかしげもなく言えますが、そうですね。実は私の初恋、貴方だったんですよ?」


「……それって」


「はい、有り体に言ったらそういう事です。せっかく貴方のことを忘れられたと思ったのにですね」


 「どうしてあっちゃうかなぁ」と一瞬声が震えているように聞こえた。

 私は先ほどまで行われていた、もう、トラウマとしか言えないものを思い出した。


「な、なあ、まさか襲ってきたり……」


 赤信号でのブレーキ音。

 私の言葉はそれにかき消された。


「えっと、なにかいいました?」


「いや、何でもない」


 数十分の間どちらも言葉を発しない時間が続いた。


 ま、まあ、別に久しぶりに出会った友人と話すなんてどうでもいいし、漏らしたことを知られている相手に自分から話しかけるなんてアホみたいなことだし、バスに乗った時に話しかけてきたあいつが頭おかしいだけだし。


 今思えば私の周りの人って異常者、狂人ばかりだな!

 そうだよ! 狂人ばかりじゃないか! あいつもこいつも! なんで漏らした奴と連絡先交換したがるんだ! 意味が分からん! そもそもとしておかしいだろうよ!

 こいつもあの女みたいに襲ってくるんだろうよ!



 最低だ。



 冷静に考えなくてもわかる。



 彼女はそんなことをしないし、狂人でもない。

 私の気まずさを無くすために、話しかけてくれて。

 八つ当たりもいいところだ。


 はぁ。


 大きくバスが揺れて目的地のバス停で止まった。


 樹脂でできているであろうザラザラとした手すりを握りながら降りようとした時「ちょっと待ってください」という優し気な声が聞こえてきた。


 彼女が「連絡先の件ですが」と言って一枚の紙きれを渡してきた。


 私はそれを受け取ると手を振って「またいつか」と言った。

 彼女は少し顔を歪めて「それって絶対会えないやつじゃないですか」と笑った。


 重い足取りで、少しだけ軽くなった足取りで牢獄に戻った。





 私は改めて家の外観を見上げた。

 三階建ての木造住宅。

 これだけを聞けばそこら中にありそうなだけれど、まず柵がある。

 そして門がある。

 うん、庭が広い。


芝生の上に足跡をつけながら、無駄にデカい豚小屋の中に帰ると「お説教よ、そこに立ちなさい」とは言われずに「ゆっくり自愛しなさい、ふふ、自愛はだめよ?」といってきた。


 言われた通り自愛をするため、無駄にデカいであろう浴場へと向かった。

 そこは脱衣所まで大きく、まるで豚を連想させるようだった。

 適当に服を脱ぎ、私が着る用の下着が用意されていたのは驚きだが、とにかく浴室に入った。


 私が住んでいる一般的なアパートの浴室を大体二個ほど用意したら、ここにあるようなものになるだろうか。

 いや、正確に言えば2.5倍なのだが。

 隅々まで掃除がされ、ぴかぴかに……いや、風呂場だ。

 デカくて広い、そして猫足のバスタブ。


 物珍しさに多少の興奮はしたものの、あの女が突入してくるのを危惧して、シャワーのみで、早めに終わらせようと思った。


「はぁ……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る