第2話 お手洗い
日は落ち、冬の寒さが一層に増す時間帯だろうか。ジャムもマーガリンもつけられていないパンにかぶりついているときに「伝えたいことがあるの」と彼女は口を開いた。
と言っても晩御飯を食べている際中、頻繁に話しかけられているのだから今更。
やれ「大学の教授が~」だとか「貴方の事誰も心配していなかったよ~」だとか、つまらない、だがまともと言えるような物ではあった。
次はどんなくだらない話を聞かされるのだろうか。
そんなことを思っている時に「くだらない? 上り調子なのさ!」などと一人でボケていたのは墓まで持っていく。
私は咀嚼している物を飲み込み「それで、なに?」と話を促す。
「トイレ行きたいときは私に言いなさいよ?」
「……はい?」
「いや、だから、トイレに行っても貞操帯のせいで酷いことになるでしょ?」
「……あー、はいはい、そういうこと、わかったよ」
今日の朝あれだけひどい目にあったのだから、無駄に抵抗して痛い目を見るくらいなら従った方がマシで、流石この年にもなって漏らすことなどしないし、そんな恥ずかしい姿は見せたくない。
それに私は利口なのだ。
一種の服従を表すその言葉に彼女はにっこりと顔を歪ませた。
「ふふ、素直でよろしい」
「はいはい、どうせ反抗しても無駄だし」
そんなことを言いつつ、私は目の前でのんきな顔をしているこいつの足を軽く蹴った。
「それにしても……本当に美味しそうに食べるのね」
彼女はまじまじと見ながら呟く。
「……まあね」
「ふふ、可愛い、味のないものをそんな可愛い顔して食べられるのは世界を探しても貴方しかいなさそうね」
「そんな、皮肉だか嫌味だかよくわからない事を言ってないで、ジャムでもなんでもいいから買ってきてよ、晩御飯が味なし食パンとかクレイジーだよ」
そう言ってもう一度パンにかぶりつく、まあまあ旨い。
それでも、味がしないのはつまらない。
(つまらない、そう! 円滑な!)
それにしても味気ないので「あーあ、飼っているペットに餌を与えない、馬鹿なんだなー」などと心の中で彼女に向かって文句を言う。
しばらくしてそれを察したかのように彼女は私に対して嘲笑を浮かべた。
彼女は私と対面で座っている椅子から立ち上がり、近くにあったバックの中から鍵を渡してきた。
「はい、これ合鍵ね」
私はその鍵を受け取るとポケットの中に入れる。
「ほら、お金も適当に渡すから、さっさと好きな調味料を買ってきなさい」
私はこいつ馬鹿なのではないのかと、笑いをこらえながら席を立った。
「私は馬鹿ではないという事が今ここで証明されたわけよ。貴方の場合はどうなのでしょうね。あぁ、それと『ペットに餌を与えない馬鹿』考えていることを無意識で口に出す癖、直した方が良いと思うわ」
何か変なことを言っているが、彼女の不敵な笑みを見て、こいつはやはり馬鹿なのだと確信してしまった。
ーーーーーーー
街灯の明かりを頼りにスーパーまでの道を歩きながら、彼女から渡された紙幣の枚数を数えると、五千円札一枚と千円札二枚だった。
小銭は数えずに、これだけあれば十分だろうと思ったため、バス停がないか探す。
しばらくすると、道路を挟んで向かい側にバス停があった。
「ちょうどいいところに!」と心の中でガッツポーズをしながら早足気味にバス停まで向かう。
バスがくるまでにまだ時間があるので私はベンチに腰掛ける。
いつもの癖で足を組もうと試みたがあの忌々しき下着もどきが邪魔をして出来なかった。
多少の不満はあるものの、にっこにこになりながらやはりあいつは馬鹿だと優越感で気持ちよくなった。
しばらくしてバスが到着すると、私はそれに乗り込んで適当な座席に座る。
バスは走り出し目的地へと向かう。
バスの中は外と比べて暖かく快適な空間になっており、私の他に乗客の姿はなく貸切状態になっていた。
片方は嬉しいがもう片方は少しだけ嫌だった。
バスに乗っている時間は三十分程だろうか、いつもよりも早く感じたのは気のせいなのかもしれない。
今日一日だけで色々な事があった。色々と言っても変な女に変なことをされたくらいだが。
一番印象に残っているのは彼女が私につけたあの貞操帯。
あんなものをつけられるとは思ってもいなかった。
態度こそ大きく出ていたものの、正直なところかなり不安であった。
あれを着けたまま生活するなんて考えただけでもゾッとする。
だが、もう遅いのだ!
そう! 私は自由の身! これから交番にでも駆け込むとしよう!
警察に保護してもらう! 完璧だ! よし! そう決意し立ち上がった。
「立ち上がってどうするよ」
私はいったん座り直す。
そうだ、ここはバス内。
乗客がいないといっても私は一人きりで乗っているわけではなく、運転手がいるじゃないか。
まあ、別に変なことをするわけじゃないんだから立ってても座ってても別に運転手さんからしたらどうでもいいのだけど。
しばらくの間バスに揺られてゆったりとした時間を過ごす。
バス停の近くにあった自動販売機から購入したオレンジジュースもごくごくと胃の中に収めた。
どうしようもないくらいに私は今、人生という物を満喫しているのかもしれない。
だが、どうだろう。
人生という物は山あり谷ありであり、何かしらの問題や困難があるものだ。
まさに今の私の状況がそれだ。
私は現在進行形で危機的状況に陥っている。
それは何故か? 答えは簡単、尿意を催したからだ。
そう、おしっこに行きたい、ただそれだけの話である。
先ほどからトイレを我慢してはいるのだが、なかなかどうしてトイレに行くことができない。
なぜかって? そんなこと決まってる。
バスの中にいるからだ。
あの掃き溜めから自由への帰還を実行しようとする前、ほんの少しだけお花を摘みたかった。
でも私のプライドが邪魔をして「そんなことは許せない! 我慢しろ!」と叫んでしまい……
そんなことはどうでもいい。
このままだと確実に漏らしてしまうし、貞操帯のせいでそれは盛大な物になる。
私は必死に考える。
どうすればいいのかと。
考えれば考えるだけ、頭の中はパニックになるだけで一向に解決の糸口はつかめない。
とりあえず今緊急事態なので、バスの止まりますボタンを押す。
これで最寄りのバス停に止まってくれたら、近くにトイレがあれば万々歳なのだが。
生憎みんなが幸せになれるエンディングなの存在しないのは知っている。
不安と下腹部の緊張は増すばかりであった。
しばらくすると、バスはゆっくりと減速していき停車しようとしているようだ。
ようやく降りれる、そう思った瞬間、バスが大きく揺れた。
それと同時にブレーキがかかる。
その衝撃に耐えきれず私は転倒してしまった。
怪我はしていない。
すぐさま立ち上がる。
「すみません、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫です」
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「本当にすいませんでした」
私は頭を下げる。
運転手の女性は不思議そうな顔を浮かべている。
しかし、本当に災難だ。
こんなことなら逃げなければよかった。
しかし、いくら後悔してもしきれない。
それから数十秒後、バスの扉が開いた。
私は逃げるように急いでバスから降りると、近くにある公衆便所へと駆け込んだ。
何故かぐちゃぐちゃに濡れているズボンを脱ぎ、トイレットペーパーで太ももを拭う。
もちろん個室に入って鍵を閉めている。
そのままパンツに手をかけようとした時、ふと思う。
仮にいまから交番にでも駆け込めば私がお縄につく、それは容易に予想が可能。
ならば自宅へと何かしらの足を使って一時的に避難をする。
うん、これも論外だ。
今から元居た場所へと戻る。
これこそダメだ。
うーん……
そもそも、この状況自体がおかしい、なぜ私はこんな目にあわなければいけないのだろう。
そう思うと無性に腹が立ってきた。
あいつが悪いのだ、あいつのせいでこんなことになったのだ。
私はあいつに対しての怒りを抑えきれなかった。
怒りをぶつけるように壁を思い切り叩く。
口をぽっかりとあけた。
それもそうだろう、個室の扉が開けられたのだ。
「鍵をかけていたんですけど」と冷静な心が呟く。
そこには鞄を持った忌々しき女がいた。
「あら、貴方もしかして、面白いことをしてしまったのかしら?」
「ち、違うよ!」
しかし、何が違うのだろうか。
自分でもよくわからない。
「まあ、いいでしょう。それよりも、少しやって欲しいことがあるのだけど」
やってほしい? 何を言っているのかわからないし、何が起きているかもわからない。
「安心しなさい。別に取って食おうってわけじゃないわ」
彼女の言うことは信用できない。
私はそう思いつつも、彼女に連れられるままについていく。
しばらく歩くと彼女が何をしようとしているのか、どこに連れていかれているのかが分かった。
路地裏だ。
路地裏と言っても様々だが、ここはいわゆるそういう所なんだと思う。不潔で薄暗く、人気もなく、どこか不気味さを感じさせる。監視カメラもないだろう。
そんな場所に彼女は私を連れてきたのだ。
「ここって……」
「えぇ、そうよ、所謂。まあそれと、今から何をするかをはっきりとは明言しないわ、その方がドキドキしないわよね」
そう言って笑う彼女を見て、下半身が濡れた、冷や汗で。
「あぁ、大丈夫よ。別にここで貴女をどうこうするつもりはないわ」「じゃ、じゃあ一体どうするの?」恐る恐る聞いてみる。
「脱ぎなさい」
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