第4話 ジャン
「うわあああ、フトッロ! お、お前パメラ、何をしたんだよぉ!」
「わ、忘れてた!」
フトッロに駆けつけたのは兄のロッポだ。すっかり彼のことを忘れてしまっていた。ロッポは大汗をかきながら、被っていた帽子もすっ飛ばして飛び出したが、同時にパメラは後ずさってしまった。
「フトッロ、フトッロ! い、息は……してる、死んでない! えっ、死んでない!?」
「殺してない殺してない!」
わちゃわちゃ必死になる背後ではフィーナが楽しそうに高笑いをしていて、木の葉っぱまでもが風の中でざわざわと笑っているようだ。孤児院までの道はずんと大きな樫の木がぽつぽつと均等に並んでいる。いつも見慣れている道のはずが、今日にいたってはまるで初めて見るみたいな気分になってしまう。
「この……っ、このやろうっ!」
「あ、あわわ……」
フトッロをゆっさゆっさと揺らしていたロッポは次第に怒りにわなわなと口元を震わせパメラに視線を移動し勢いよく立ち上がった。彼は弟のフトッロに比べれば、スキルはただの穴掘りだし、背が高いだけでひょろりとしているからあまり驚異には感じないが、正直こちらも疲れ切ってしまっていた。今にも足をもつれさせて転んでしまいそうだし、結果的にフトッロを叩きのめしてしまうことになったが、暴力で全てを解決したいわけではない。しかし、相手はどうにも聞く耳を持っていない様子だ。
『行くのよ、パメラ、やっておしまい!』
「や、やらないよ!? やりたくないよ!? また殴るとかそんな」
「殴る!? そっちがその気ならとことんやってやるよ!」
『ぎったんぎったんのメッタメタにしてさしあげてよ! レッスン2の始まりね!』
「ああ違う! 始まってたまるかぁ!?」
実際には二人なのだが、二人と幽霊が交じるとわけがわからなくなってくる。でもここで逃げたところで結果は同じだ。毎年、一匹、二匹のモンスターが街を襲うが、パメラができることは怪我をしないように避難をすること程度でこんなふうに拳を握りしめたり、誰かと相対したりすることは初めてだ。
だから、腹の底でぞわりとする感覚を前にしてわずかばかりに苦しくなった。ぴこんっ! と目の前で矢印が光っている。ロッポが次に進む場所が分かる。でも、今度こそパメラは強く瞳をつむっていた。
『パメラ!』
フィーナが驚く声が聞こえる。自分の顔の前に両腕をクロスさせてそのまま背を向けるように座り込んでしまったが、いつまで経っても痛みがはしることもない。不思議に思ってゆっくりと瞳を開け様子を窺おうと振り返り、びっくりしてパメラはそのまま尻もちをついてしまった。
黒髪の少年がただの片手一つでロッポの腕をひねり上げていた。
ぷるぷると震えるロッポに対して少年は長い前髪で見づらいが、顔色一つ変えていない。その前髪の向こう側には青とは一言で言えないほどの、空の色を落とし込んだみたいな不思議な瞳を持っていることをパメラは知っている。
「……ジャン!」
「じゃ、じゃま、すんなよ!」
ロッポの方がジャンよりもいくらか背が高い。高さを活かし、ジャンに腕を掴まれたままぎりぎりと力を込め、無理矢理振り下ろそうとした。が、あっけなくジャンにいなされ、ロッポは腹を向けて地面に叩きつけられた。「失せろ」 短く言葉を吐き捨てた。それでも飛びかかろうとするロッポに、「失せろと言った」 再度強く睨みをきかせた。
ロッポはぶるりと震えた。逃げ出そうとしたが、すぐに意識のない弟へと目を向け、なんとか引っ張ろうとするが、重たすぎる身体はぴくりとも動かない。それでも諦めることなく、ふんっ、ふんっと鼻息を荒くして頑張っている。そんな彼のもとにジャンはすたすたと近づき、「背中、向けろ」 ずしん、とロッポの背にフトッロを乗せた。「はわわわわ」「がんばれ」「あわわわわ」
よたよた、よちよちとロッポは進みつつ撤退する。「こけるなよ」とジャンは静かに応援している。彼はパメラの幼なじみであるが、表情はあまり変わらないので、何を考えているのかたまにわからないときがある。いや、幼なじみ、という言葉で捉えるのならロッポ兄弟も同じ街で育った仲間だから、ジャンにはもっと適切な例えがあるかもしれない。
同じ孤児院で育った同士――つまりは、家族というような。
***
「あの、ジャン、ありがとう……」
「ん」
フトッロを抱えたロッポがよちよちと亀の歩みで消えていく頃、パメラはジャンの手を借りながら立ち上がった。前髪が長すぎて、あまり顔がよく見えない。後ろの髪の毛はちょん、と短く一つくくりにしている。服は見たところ服は作業着で、吊りズボンを穿き、ぽりぽりと頭をひっかいているのだが。
「いや、というか、一体どこにいたの?」
中々ベストなタイミングの登場だった。むしろベストすぎたともいう。「ん」 ジャンはちょん、と樫の木の上を指さした。つまり、木の上からパメラ達の様子を窺っていたということらしいのだが。
「…………」
「高いところが好きだからな」
つまり……と言ってしまいそうになるが、この二つ年上の兄のような少年はパメラよりもずっと賢い。十二の年となり、スキルを授けられてから、つまりは二年前からすぐに街に働きに出た彼の働きっぷりは中々に有能と聞く。
「あそこの兄弟が妙な時間に門を出ていくのを見たから、少しひっかかった。親方には許可をもらってる」
ジャンは短期間にいくつもの職を転々としているが、決して首になったというわけではなく効率よく稼ぐことができる場所を選んでいるのだ。今は街の外壁の改築作業を行っている。それももうすぐで終わると言っていたから、都合をつけやすかったのかもしれない。
「何にせよ、すごく助かった。正直どうしようかと思った」
「ん」
言葉数は少ないが、別に怒っているわけでも照れているわけでもない。最近は会うことも少なかったから、相変わらずだなぁ、とパメラは思わず苦笑すると、フィーナがパメラとジャンの間に割り込み、じっとジャンを下から覗き込んでいた。ちょっとやめて。
『んん……顔がよく見えないわね……』
(あの、フィーナ、やめて……ちょっと。やめてよ)
『いやよ。私、こういうことは気になったら確認せずにはいられないの。欲しがりのパメラフィナートと呼ばれた二つ名は伊達ではなくってよ』
(どんどん二つ名が増えてるから。伊達でいいから……!)
聖女だとか強欲の悪女だとか、一体どれが本当なのかわからない。だいたい本当に公爵家のご令嬢なのかすらも怪しくなってきた。
『んん、ムフンッ! 見えたわ! あら、中々の男前じゃない。せっかくだし前髪をちょんちょんにくくってあげたいわ。パメラ、あなた髪紐か何か持ってはいない?』
本当にやめろとしか言えない。
「あー……」
ジャンは声変わりをしたばかりの低い声を静かに呟いた。うるさすぎただろうか、慌ててフィーナと手を合わせるようにぴょんっと飛び跳ねてしまったが、さっきまでの自分の言動を思い返して下手な言葉はしゃべっていないとほっとした。ちゃんと頭の中で考えて、フィーナと会話できていたはずだ。ちょっと挙動不審だったかもしれないけど。
ジャンはちらりと道の先を見上げて、「帰るんじゃないのか?」と問いかけた。「うん、そう。うん!」「じゃあ、送るか。せっかくの今日だしな。少しくらいなら別にいい」「本当? じゃあ、一緒に行こう。なんだか」
久しぶりだね、と言おうとして、足が震えていることに気がついた。疲れてしまったのか、それとも驚いてしまったのか。『どうかしたのかしら?』と、フィーナはきょとりと瞬きパメラを見下ろしていた。
多分、色んなことがあって心の次に、身体が驚いている。奇妙な幽霊に出会って、スキルの使い方を知って、パメラのスキルは未来視ではないと教えられて……。
それが本当のことかどうかはわからないが、まるで天と地がひっくり返ってしまったみたいだ。どうにも前に進むことができず、自分の身体が、自分のものではないような。
「ごめん、何か、ちょっと……」
先に行っておいて。
そう言おうとしたとき、ジャンは振り返り、パメラに手を伸ばした。「ほら」 出会ったときよりもずっとしっかりと変わっていて、力強い手のひらだ。それでも少年らしく、アンバランスな危うさもある。自然と手を握りしめていた。うん、とジャンは満足そうに頷いた。
ぽくり、ぽくりと丘を登りながら、パメラはふと、奇妙な感覚に胸を打たれていた。明るい太陽が木漏れ日を作り、まるでどこまでも続いていくようだ。パメラはジャンと手のひらをつなぎながら、少しずつ歩いていった。
今までの日常をあっさりと変化させる道のりを。
――にまり、と女は口元に笑みをのせた。
公爵令嬢パメラフィナート・エーデルシュタインは悪女である。
そのことを、まだパメラは何も知らない。
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