第47話 母の教え
「カナデ、顔のいい男は信用しちゃだめ。近寄ってきたら逃げる。これは絶対」
ああ、母さんだ。名前も思い出せない母さん。
ビールの缶を片手に、焼き鳥の缶詰を食べながら、酔っぱらって、おんなじ話ばっかりしてた。
いつもの、母さん。
「あんたの父さんも、そりゃあ、びっくりするくらい男前だったんだけどね、ある日突然、行方不明になって、事故にでもあったんじゃないかって、ほんと心配して、眠れないぐらい心配して、大騒ぎして、スナックの仲間みんなで探したんだよー」
酔っ払って、大声で話す夢の中の母さんは、ぐいっと缶ビールを飲みほしてから、鼻をすすった。
「そしたら、さ、なんと、他の女と子供と暮らしてた。しかも、私の方が浮気相手だって。あはははっ。あいつ、結婚してたのを隠して、私と子供まで作ったのよー。あはは。出張だって言って、いっつもいなかったのは、本当の奥さんと子供の家に帰ってたってこと。あははは。バカだよねー。ホント、あはは」
泣きながら、笑って、笑って、そしてまた泣く母さん。
酔っぱらったら、いつもこの話。泣いて笑って、ビールを飲んで、そして、最後に必ずこう言う。
「カナデ、あんたは強い子。あんたは大丈夫、大丈夫だからねー。父親なんかいなくても、あんたはちゃんとやれる。強い子だもん、大丈夫、大丈夫。あんたは大丈夫、強い子」
そう、私は強い。
だから、大丈夫。
だって、知ってるから。
シャルは、ものすごく顔のいい精霊だってことも。
精霊には、私の聖力だけが求められているってことも。
この世界は、秘密だらけだってことも。
でも、でもね。
私は大丈夫だって、私は強いって、
母さんいっつも、そう言ってたじゃない。
だからね、母さん、もう心配しないで。
私は大丈夫だから、もう、私を忘れて生きて。
私もここで、がんばって生きていく。
だから、お願い。
もう、二度と夢に出てこないで!
……だって、
目が覚めると、とても悲しくなるから。
今日から授業が始まる。休みはもうおしまい。
私は黒のニットワンピースの上に白いローブを羽織った。教本の入った重たいトートバッグを肩にかけて、部屋を出る。
この世界の夏は長かったのに、秋は短い。
ストールを持って来たらよかったかな。
強い風に少し後悔しながら、葉を全て落とした木を見上げて、校舎へと急ぐ。冷たい風が顔に当たると、自然に気が引き締まった。
「遅かったわね。カナデさん」
イザベラが、教壇の真ん前の席で手を振った。
私はその隣の席に座って、教本とペンケースをバックから取り出す。私のやる気アップ席。イザベラも隣で座って、やる気を見せる。ブルレッドさんとスノウさんは一番後ろの、居眠りごまかし席だけどね。
「世界史3は予習してきまして? この世界って本当に不思議なことだらけね。もっとも、私の元の世界も、今考えると創世神話はありえないことだらけでしたわ。絶対に、王族のことは美化しすぎですわね。民心を得るために為政者のやっていることは、どこに行っても変わらないってことですのね」
一方的にしゃべるイザベラに適当に相づちを打ちながら、教本とノートを広げる。しっかり勉強しなきゃ。
なぜなら、
「聖女スザンナは戦死した」
教室にやってきたバトラール先生は、それだけを告げた。
寮でささやかれた噂は、事実だった。
休暇期間中にリヴァンデール同盟軍で補習を受けていた四人のクラスメイトのうち、帰ってきたのは三人だけだった。そのうちの二人は沈黙をつらぬいていて、もう一人は部屋に閉じこもって、出てこない。
何が起こったのか。なぜ帰ってこないのか。不穏な噂が飛び交った。
それが、戦死……。
何があったの? なぜ、学生が、聖女が戦死するの?
どうして? そもそも、いったい誰と戦っているの?
皆が思っている。不安に思っている。
でも、バトラール先生は何も聞くなというように、生徒に背を向けて、黙々と黒板に数字を書き写し続けた。そして、黒板がたくさんの数字で埋まった後で、振り向いて生徒に告げた。
「結界の呪文と治癒の呪文だ。これを覚えないと卒業できない。その場合は、軍で働くしか選択肢はない」
その発言に、ざわざわしていた教室は、一瞬で静かになり、みんな黙って数字をノートに書き写し始めた。ペンの音だけが響いた。
「リヴァンデール同盟軍のことについては、どんなに聞いても誰も教えてくれないのよね」
イザベラは、ナイフできれいに青いぶよぶよの塊を切り分けた。
「契約精霊のオスカーにも聞いたけれど、軍のことは機密扱いだから発言する権利がないですって」
切り分けられたぶよぶよの青い塊は、青い汁に浸っていたのにも関わらず、一滴もこぼれることなくフォークで優雅にイザベラの口の中に運ばれた。
これを真似するのは難しい。
イザベラと一緒に寮の学食で夕食を食べるのが日課だ。
コウモリ精霊との契約がなくなったので、イザベラも4級市民に落ちて、上級寮から出て行くのかと少し心配してたけど、アライグマ精霊が、準男爵になったそうだ。だから、上級者寮のまま、ここで食事できる。
でも、以前ここで挨拶した先輩二人は、契約していた準男爵精霊が決闘で負けて死亡したので、一般寮に移ったそうだ。上級寮はかなりの小人数になり、フレンチレストラン風の学食は私達二人のほぼ貸し切り状態だ。
だから、私は、テイクアウトという簡単な方法でこの世界のマナーから逃げるのをやめて、夕食時にもイザベラレッスンを受けている。
「カナデさん。何度言ったら分かるのっ。そのナイフの角度、それではうまく切れないでしょ。こうやって、押し潰すように切るのよ。」
ダンスレッスンの時と違って、レストランでは鞭は手にせずに、マイルドに教えてくれる。でも、厳しい。厳しすぎて食べた気がしない。
うー、これ、あんまり、おいしくないよ。原材料は何だろう。まさか、スライムだったりしないよね。
「スライムではなくて、ジュライムだよ」
シャルはブラシで私の髪を梳きながら教えてくれた。
「ジュっていうのど越しと、ライムの香りが好まれていてね。上流階級でしか食べれない嗜好品だね」
庶民には分からない味ですね。
私は数字の呪文の書かれたノートを広げて、覚えているふりをする。本当は、そんな必要ない。先生が黒板に書いた瞬間に記憶した。他のことはさっぱりだけど、数字だけはすぐに覚えられる。母さんは数字が苦手だから、きっと父親に似たんだって言われてた。物理学者の父……。ああ、いやだ。まだ、朝の夢の余韻が残っている。
ノートを閉じて、シャルに全体重をかけて、もたれかかった。ふっと笑って、シャルはブラシを置いて、頭を優しくなでてくれる。
シャルはずっと優しい。何を言っても、何をしても怒らない。いつもにこにこ微笑んでいる。
あの舞踏会のことは何も聞けていない。あのピンクの髪の女の人のことも誰なのか聞けないまま。シャルは仕事だって言ってた。それが本当かどうかは分からない。聞けないから。
でも……。
あの時、抱き付いたピンクの髪の女の人を、シャルは抱きしめ返さなかった。
ほら、こんな風に。
体をひねって、シャルの胸に顔を埋める。そして、背中に腕を回して、ぴったりとくっついた。
シャルは、私を優しくギュッと抱きしめ返してくれた。
上目使いで見上げた私を、シャルはとろけるような微笑みで、甘い金色のまなざしで見つめ返してくれる。
こんな風には、あの女の人を見なかった。
ただ、困ったような顔をして、平坦な声でピンクの髪の女の人に答えていただけだった。
私は、シャルを信じたい。
母さんの教えを破ることになっても。
だって、そんなのどうでもいいぐらいにシャルが好きなんだから。シャルの側にいるためだったら、どんなことでもがんばれる。
大丈夫、私は強い。
だから、心配しないで、母さん。
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