胎動の章

第四十話 鬼と戯言

 翌日も教習に出かけた優斗は会議室へと入る。時間も余裕があり窓の外に目をやれば頭に浮かぶのは朝の出来事だ。


 今日は出がけに律が見送ってくれた。相変わらずのフリフリエプロンを靡かせ、玄関まで出てきた律がおもむろに優斗の頬にキスをする。それに優斗は目を丸くした。


「なっ! 何を……!」


 顔を真っ赤にして頬を抑える優斗に律は笑いながら言う。


「いってらっしゃいのキスだよ~。俺、今日は引き継ぎないから休みなの。班員が大怪我しちゃって、予備の人員も出払ってるから待機だって。美味しいもの作って待ってるからね。楽しみにしてて」


 これではまるで新婚夫婦だ。それに優斗は文句を言いつつ視線を彷徨わせた後、意を決した様に律を見上げ、エプロンを摘みちょんと引く。それに律が首を傾げるとそっぽを向きながら呟いた。


「しゃがめよ。……届かないだろ」


 ぽかんとしていた律だったが、その意味に気付くと嬉しそうに頬を差し出す。それでも少し遠くて爪先立ち、そこに唇を押し当てる。それだけで満面の笑みをくれた。


 幸せだと思う。


 好きだなんてまだ言えずにいるが、それでも律が喜んでくれる事をしたい。自分に何ができるだろうか。たぶん素直に好きだと言えれば一等喜んでくれる。それが一番いい事だとは思うが勇気が出ない。おそらくその先には未知の体験が待っているのだから。


 それを思えば身体が熱くなる。嫌ではないのだ。ただ、一度関係を持ってしまえば飽きられるかもしれない。律ならばきっと大事にしてくれる。そう思っても踏み出せずにいた。


 思わず溜息が零れると会議室の扉が開いた。長谷部が来たかと姿勢を正すが、一向に入ってこない。訝しんで首を伸ばすと俯いた女性が立っていた。その女性は小さい身体を更に縮こまらせて挙動不審に辺りを窺っている。その度におさげ髪が揺れた。


 そうっと警戒するように足を一歩踏み出すとおずおずと会議室を覗き込み、優斗と目が合いびくりと肩が跳ねる。まるで小動物の様なその女性は丸襟の白いブラウスにベージュのカーディガン、茶色いチェックのロングスカートと丸眼鏡という委員長とでもあだ名がつきそうな出で立ちだった。


 しばらく見つめあった後、どちらからともなくお辞儀をする。気まずい空気が辺りを包み、互いに動けずにいると小さく息を吐き、女性は観念したかの様に会議室へと入ってきた。静かに扉を閉めて教壇に立つ。こほんとひとつ咳をして自己紹介してきた。


「は、初めまして。井垣いがき多未子たみこです。今日は長谷部はせべ部長はご都合が悪いので私が座学を担当させていただきます」


 そう言って頭を下げる。それに倣い優斗も名乗った。すると井垣は俯きぶつぶつと呟く。


「ちっ。あの野郎、自分が解剖し遊びたいからってガキのお守り押し付けやがって……私も解剖し遊びたいっての。せっかくの活きのいい珍種だったのに……」


 小さく聞こえる声は外見からは程遠い毒舌だった。若干引き攣りながら教習を急かすと誤魔化すように上目遣いで猫なで声を出す。


「あらごめんなさい、私ったら。えへ。えっと教習ですよね。今日はお仕事の内容についてご説明します」


 優斗も居住まいを正すと井垣は丁寧な口調で話し始めた。


「小堺君はご存知の様に特務部所属です。妖魔との戦いの最前線だというのは既にお聞きですよね」


 小首を傾げて問う井垣に首肯で返す。するとペンを持ち、ホワイトボードに図を書き連ねる。それは長谷部とは全く違い几帳面な文字だった。


「まず、基本的な構造です。五人を一班とした二部体十人編成で任務に当たります。敵の規模によって合同の時もありますが個別に対応する事も多いです。しかし、小堺君は共切の所有者ですので序列五位の宮前君と二人だけの特殊編成となります。その下に班がつくという状態ですね。任務によって組む班は変わり、小堺君が指揮権を持ちます。勿論、宮前君や班長の補佐はありますが貴方の意見が優先です。命を背負っちゃう訳ですね。ヤダかわいそー」


 そう言う井垣の顔は煌めいていた。こいつもやはり陰陽寮の所員だけあって一癖も二癖もありそうだ。


「妖魔に対しては……明日から実地教習が始まりますからそちらで習ってください。同行するのは三番隊第一班、つまりお父さんの部隊です。まずは妖蟲狩りから始めると聞いています。部隊行動の練習ですね。小堺君は封印の経験があるとか。それなら妖蟲くらいちょちょいですよ」


 そしてまた邪気の無い笑顔で刀を振る真似をする。それはあまりに無責任な言動だ。実際に戦う優斗達の事など意に介していない。


「説明は以上! ではアデュー!」


 片手をシュタッと上げて告げられた言葉はあまりに突然で一瞬呆けてしまう。


 が、しかし投げっぱなしで出ていこうとする井垣を優斗は慌てて後ろから羽交い締めにして止めた。


「きゃーっ! 痴漢! 変態! 離してーーーーっ!」


 優斗の手から逃れようと井垣が暴れるが優斗は離さなかった。一番聞きたい事が聞けていない。


「ちょっ! まだ聞きたい事があります! 勝手に切り上げないでくださいよ! まだ時間じゃ無いでしょう!? ちゃんと仕事してください!」


 会議室の扉の前でしばらく揉み合っていた二人だが、如何せん優斗の方が体力はある。背も多少だが優斗が高かった。諦めたのか肩で息をしながらようやくおとなしくなった井垣を教壇に引っ張っていくと、腕を組み見下ろしながら質問を口にする。


「鬼って何ですか?」


 そう聞くと、今まで逃げようとしていた井垣の顔が途端に輝いた。その変わりように気圧されながらもじっと見つめる。


「な~んだ~。そんな事なら喜んで教えますよ! はい、座って座って~」


 キャッキャウフフと笑いながら井垣はつらつらと言葉を紡ぐ。


「鬼っていうのはですね、妖魔の最終形態といます」


 その言い方に優斗は引っ掛かりを覚えた。


「妖魔の始まりは小さな綻びです。思念が凝り固まり、形を持つと妖蟲へ。更に霊力を取り込み成長していくと妖魔となります。それはまだ知恵を持たない魑魅魍魎ちみもうりょう。言い換えれば野良犬と変わりません。しかし、それがそのまま力を増すと知恵を持ち、人の形を取ります。最初は餓鬼と呼ばれる雑魚ですが、幽鬼、怨霊鬼、牛鬼などを経て童子と呼ばれる最強の鬼になるのです」


 そこで何故か井垣は胸を張る。まるで自分を誇るかの様だ。だが、次の言葉で表情が曇る。


「しかし、残念ながらこれは推測に過ぎないんですよね。童子で有名なのは酒呑童子ですが、それは疫病の比喩だったとされています。それが大江山の盗賊の頭領の話と合わさり鬼と呼ばれる様になった。少なくとも陰陽寮の文献ではそうです。陰陽寮は平安の時代から続く機関ですが童子の資料は不自然なほどありません。その存在はあくまで仮説の域を出ないんです。いくつか鬼と目される検体は捕獲された事はありますが解明には至らず」


 腕を組み唸る井垣は心底悔しそうに顔を歪めている。しかし、パッと表情が輝いた。


「そこで浮上するのが共切です。共切は明らかに他の妖刀とは違います。一代に一人しか抜けない事、どんな妖魔でも断ち切ってしまう事。そんな共切は突如として文献に名前が上がります。製作者も不明、初代所持者の名前も不明。引き継いだ一族に時の天皇から共咲の名をたまわったとあるだけです。その一族に伝わる伝承により、この共切だけが鬼の存在を示しています」


 そこまで一気に言うとひとつ咳をする。


「妖刀は共切の模倣です。しかし、その製法すら口伝で伝わるのみ。どうやって鬼を封じ込めたのか、その鬼はどんな物だったのか。それを知る術はありません。だから私達は日々研究にいそしみ、謎を解き明かすべくメスを握るのです!」


 最後の締めは演説の様だった。鼻息も荒く言い切ったと汗を拭う井垣。その勢いに優斗は思わず拍手をしてしまった。井垣はそれに気を良くして更に続ける。


「鬼は空想の産物なのか? はたまた何処かで息を潜めているのか? 海外にも陰陽寮に相当する機関があり、そこでは実際に吸血鬼が捕獲されているそうです。日本でもナイトウォーカーの目撃例は多くあります。しかし、鬼とはまた別の種族です。そちらは便宜上妖怪と呼ばれます。犬と猫の様な物ですね。もし鬼が実在するとしたら、それは妖魔の成れの果て。妖怪よりも上位の驚異的な怪異です」


 太陽が真上へと差し掛かり、窓から眩い光が二人を照らす。クーラーの効いた部屋でも熱波は届き、騒ぐ蝉の声がそれを増長させる。流れ落ちた汗は何に対する物なのか。

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