第三十八話 未完成の恋

 あの後、なんとか優斗をなだめて勉強会を始めた。二人で課題を持ち寄りリビングのテーブルに広げる。ソファに隣同士で座り律は上機嫌だ。ピッタリと寄り添う相棒に優斗もぶつくさと文句を言いつつも満更でも無い様子で課題に取り組んでいる。


 律は勉強を頑張ったと言うだけあって問題をサラサラと解いていく。時には手が止まった優斗に分かりやすく教えてくれて、その時ばかりはいつもの押しの強さも無く至ってまともだった。


 優斗はその横顔をそっと覗き見る。


 ――もう触らないのかな……。


 自分から拒否したというのに触れてほしいと願ってしまう。その矛盾に気付き自分の身勝手さに自嘲が漏れた。その時目に入った参考書を指す手の甲にはあの傷跡。先日、初めて自分から口付けた場所だ。思い出したら自然と手が伸びていた。重ねた手から伝わる体温に優斗の心は暖かい物で満たされる。


 そんな優斗の様子を律も柔らかい笑みで見つめていた。そのまま動かない優斗に首を傾げて艶めいた視線を送る。


「今日はキス、してくれないの?」


 その一言に優斗は紅潮するとペシりと手を叩き口を尖らせる。


「だから! あれはただの気まぐれだって言っただろ! ……この傷、もう痛くないのか?」


 左手のその傷は親指の付け根から小指まで縦断している。残った跡からも相当な深手だったろう事は容易に知れた。律はヒラヒラと手を振りながら笑う。


「うん! たまに引き攣るけど痛みは無いよ! 結構前の傷だしね。御代月を継いだ頃だったかな~。確か十二とか十三とかそのくらいの時。まだ玲斗さんの所に来る前でさ、初めて班長を任された任務でやらかしちゃった。御代月もまだ上手く使いこなせなくてね、自分で斬っちゃったの。馬鹿だよね~。この程度の傷なら身体中にあるよ~。見たい?」


 そう言いながらTシャツを脱ごうとする律を必死に止めた。


「いや、いいから! 脱ぐな!」


 ちらりと見えた体は筋肉質で引き締まりがっちりとしていた。それが魅惑的で何故か顔が火照る。それに目敏く反応して律が身を寄せてきた。


「あれれ~。優斗顔真っ赤。可愛い~。どうしたのかな~? 俺の裸見て興奮しちゃった?」


 狭いソファの上でのしかかる様に迫る律に優斗は熱の冷めない顔を隠し胸を押し返す。


「ち、違う! そんなんじゃない! どけよ! 勉強しなきゃダメだろ! 馬鹿っ脱ぐなって!」


 いくら抵抗しようと律は気にせずTシャツを脱ぎ捨てる。そこにあったのは傷だらけの身体。大小様々な傷がそこかしこにある。裂傷に刺傷、抉られたような跡もあった。深い物も浅い物も。それは律が生きてきた証拠だ。優斗は頬を染めながらも惹き付けられる。特別大きな腹の傷をそっと撫でると溜息が零れた。


「ふふ、優斗エッチな顔してる。ねぇ、もっと触って。優斗に触られるとゾクゾクしちゃう」


 律は優斗の手を取ると下腹部へいざなう。触れるか触れないか。ぼうっとする頭に鳴り響く鐘の音で我に返った優斗は目の前の猛ったモノに思いっきり拳を振り下ろした。それはクリティカルヒットして律は悶絶する。


「あ、危なかった……。お前、ほんっといい加減にしろよ!」


 そう言うも息も絶え絶えな律には届く事は無い。自分から触ってきたのに。律の声にならない声は虚しく消えた。


 しばらく立ち直れない律を脇にどかして優斗は黙々と課題をこなす。それでも今しがた見た律の身体が頭から離れずムズムズする。


 律と再会してから歯止めが効かなくなってきている様に感じた。たった一日会わなかっただけなのに。律の行動ひとつひとつが優斗の心を揺さぶる。


 律はあくまで相棒。そう思い込もうとしても心とは裏腹に身体が反応してしまう。初恋もまだ、勿論未経験な優斗は自分の変化に戸惑っていた。友人さえ数える程しかいなかったのに、急に恋だなんてどう接すればいいのか分からない。しかも相手は男だ。普通とは言い難い恋。誰かに相談するのも怖かった。もしかしたら気味悪がられるかもしれない。


 昨今、性的マイノリティは周知されてきてはいるが、それでも少数派だろう。そんな優斗の悩みもそっちのけで律はグイグイ来るのだから始末に負えない。律も自分に恋してくれているのか。それさえも確かめる勇気は無かった。


 律は好きだと何度も繰り返す。そして優斗を求めた。でもそれが恋なのかは律も分かっていなさそうだ。ただ、狂信的に優斗を手にしようとしているだけのように思える。それも共切のせいなのか。


 この陰陽寮という狂った場所で寄り添うには二人は幼すぎた。


 菖蒲あやめ達と歳はそう違わないが、育った環境が違いすぎる。菖蒲達は生まれた時から妖魔と対峙するべく教育されてきたのだ。


 律も八歳で家族を亡くしてから時間が止まっている。優斗と出会ってやっと時が動き出したがそれもまだ身体に追いついてはいない。


 そして優斗は剣術の稽古を受けていたとはいえただの子供で、いきなり闇の世界に放り込まれ自分の醜さを思い知らされた。


 精神的に脆く、恋を知らない二人は互いをただ一人として求め合う。それは狂気の中で正気を保つための本能か。数秒先の命さえも保証されない暮らしは少しづつ心を蝕んでいく。だが律が、優斗がいてくれるから生きていける。明日に希望を持てる。


 それだけが指標だ。


 この家はその礎。


 ここにいる間だけは巫山戯ふざけあって、妖魔の事など忘れた様に過ごせる。それも僅かな時間だが、二人が人間として在るためには必要なものだった。


 もしお互いに出会わなければ、優斗も律も、それぞれの闇に飲み込まれていただろう。


 優斗は周りを敬遠し孤立して。


 律はただ無意味に命を消費して。


 その二人が邂逅した。

 運命は回りだし、結末へと進む。


 そこにあるのは果たして未来か、終焉か。

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