第十九話 存在意義

 腹ごしらえも終えて、次に向かったのは宿舎だ。十五階建ての臙脂えんじ色のマンションが四つ並ぶ中、二番目の建物に足を踏み入れる。そこはだいぶ古びてはいたが、リノベーションされているのか住み心地は悪くなさそうだった。


 薄暗いエントランスを進み、エレベーターを呼ぶ。優斗達の部屋は十二階だ。部屋は十階までの下層に単身向け、十一階から上層がファミリー向けに作られている。優斗達は二人なのでファミリー向けの部屋が割り振られていた。実際にはファミリー向けと言っても優斗達の様にバディ同士で入居している方が圧倒的に多い。動くのに都合がいい上、家賃も抑えられるからだ。他にも職場結婚して部屋を移る例もあるとか。


 部屋の割合からいって単身者が多いのだろう。陰陽寮の仕事柄、家庭を持つのは難しいのかもしれない。玲斗の様に離れて暮らす例もあるようだがそれもごく一部だ。


 十二階に到着すると、エレベーターを降り一番奥、一二〇七号室の前まで辿り着く。扉は白い鉄製だ。律が鍵を取り出し鍵穴に差し込めば、それは簡単に回りガチャリと音がした。


 律はにっこり笑うと弾むように声を上げる。


「ここが今日から俺達の愛の巣だよ~。さ、入って!」


 開かれた扉の向こうには廊下が伸びている。少し埃っぽい匂いと、微かな律の匂い。どうやら先に律の荷物は運び込まれているようだった。


 靴を脱いで室内に上がると、律がそれぞれの扉を開けながら案内する。


 まず最初にあるのが律の部屋。玄関から入って左側だ。窓の無い八畳程の洋室にセミダブルベッドと勉強机、それからタンス。片隅にはクローゼットがある。意外に物が少ない。勝手に散らかっている部屋を想像していた優斗は拍子抜けしていた。


 まぁ、今日が初日だ。これから散らかる可能性は十分ある。


 それに何を勘違いしたのか律は照れながら優斗の顔を覗き込む。その目に要らない色気をたっぷり乗せて。


「いつでも遊びに来ていいからね。鍵は開けとくから。ベッドも新調したんだ。シングルじゃ狭いからね。俺の隣は優斗の物だよ」


 それに侮蔑の表情で返すが律は何故か喜んだ。どんどん悪い方へ拗らせている気がしてきて優斗の背を冷や汗が伝う。


 律の部屋を後にして、廊下の右側に続くのは風呂場とトイレ。脱衣所には明り取りの窓と洗面台、洗濯機が並んでいる。風呂場を覗くと十分な広さの湯船があった。ゆっくり浸かる事ができそうだ。それにも律が横槍を入れる。


「広いでしょ? 一緒に入ろうね。洗いっこしたり、それからあーんな事とかこーんな事もしちゃったりして」


 ぐへへと笑う律を完全にシカトして優斗は先へ進む。廊下に面したもうひとつの部屋は空き部屋だった。こちらも窓が無くがらんとしている。


「そこは物置にでもしようかと思ってるんだ~。優斗の部屋はね、こっちだよ」


 そう言って手を引くと、廊下の突き当たりにある扉を開ける。そこは開けた空間だった。右を見れば広いカウンターキッチンがあり、その後ろに冷蔵庫と食器棚、調理器具が一通り揃っている。カウンターの横には四角いテーブルと四脚の椅子。その先が二十畳程もあるリビングだ。白いカーペットにガラスのローテーブル、二人がけのソファー。ベランダに続く大きな掃き出し窓から眩い日差しが差し込んでいる。掃除も行き届いていて清潔だ。今まで無人だった筈なのに。業者が入っているのだろうか。


 そのリビングを一回りして律が気色満面にはしゃぐ。


「どう? いい感じでしょ。俺、優斗が喜ぶように一生懸命選んだんだ~。ここに優斗が座って、その隣に俺。一緒にコーヒー飲んだりテレビ観たり。楽しみだな~」


 それを優斗は無言で、しかし、柔らかい表情を浮かべて眺めていた。確かに悪くない。暖かい光に包まれて、過ごす日々。それは僅かな時間かもしれないが、手を伸ばせば掴める幸せだった。


「んで、こっち」


 また優斗の手を取るとリビングを抜け、ソファーの後ろにある扉の前で止まって律がにこやかに笑う。


「ここが優斗の部屋だよ」


 そう言って扉を開けると、白い日差しが目を焼いた。リビング同様、日当たりのいい部屋だ。八畳程の広さにシックな家具が揃えられている。それは優斗の好みに合うもので統一されていた。


「いつの間に……」


 優斗が陰陽寮に入所すると決めたのはほんの数日前だ。それなのに既に個室が整えられている。その早業に我が目を疑った。


「えへへ~。実は優斗が共切を抜いたその日の内に連絡しといたんだ~。玲斗さんにも聞きながら優斗好みの部屋にしたって訳。俺、偉い?」


 胸を張る律に優斗は戦慄を覚えた。共切を抜いた日といえばほぼ初日ではないか。そんな為人ひととなりさえ碌に分からない内から用意していたのか。陰陽寮の事さえ知らなかった頃に。


 それが優斗の逆鱗に触れた。


 身勝手に巻き込み、更には優斗の人権を無視して住居まで用意している。それは許し難い行為だった。


 優斗は自分の意思で陰陽寮に入る事を決めた。

 しかしそれはあくまで結果論なのだ。


 先回りして周りが勝手に決めていい事では無い。


「なんで……僕が陰陽寮に入る事を決めたのはつい先日だ! それを勝手に決めて準備していたっていうのか!? ふざけるな! 僕の意思はどうでもいいのか!?」


 いきなり大声を上げる優斗に律は驚きを隠せずにいた。落ち着かせようと肩に手を置き笑顔を向ける。


「優斗、落ち着いてよ。俺、優斗が喜ぶと思って頑張ったんだよ? 玲斗さんや情報部と連絡取り合って、準備したの。だって優斗は選ばれた人だもの。俺の特別な人。その人のためなら俺はなんだってやるよ。どんな手を使ってでもここに呼んでた。一緒にいるためにね。俺、優斗が大好きだもん」


 笑いながら言う律にはなんの悪意も、害意も無い。ただ、自分の願いを叶えるために。それが優斗のためにもなると思っている。そこにあるのは共切の存在。優斗を優斗たらしめる存在。


 ︎︎幸せだと、暖かい場所だと思っていたのに。それは己の浅ましさ。優斗はギリリと奥歯を噛み締める。


 ――共切が抜ければ。


「誰でもいいんだよな……」


 ぽつりと呟いた優斗はいきなり律を突き飛ばし、素早く扉を閉めて鍵を掛けた。そのままずり落ち扉に縋って嗚咽する。


 ――そう。誰でもいいんだ。共切が抜ければ。律も僕なんて要らない。好きだなんて言わないんだ。父さんも。陰陽寮の皆も。僕は……。


 分かっていた事だ。だが突き付けられた事実が心を切り刻み悲鳴を上げる。共切さえ抜かなければここに来る事も無かった。律と行動を共にする事も、友の暖かさを知る事も。


 固く閉じられた扉の向こうでは律が訳も分からず叫んでいた。互いを隔てる扉を叩き、力の限りに己の半身を呼ぶ。


「優斗? 開けてよ、優斗! 俺、何か悪い事言った? ごめん、謝るから。優斗! ねぇ! 優斗! 優斗ぉ」


 その声は段々と弱くなり、震えを帯びていく。しゃくりあげ、涙を流す姿は優斗からは見えない。それでも、心が抉られ血を流す。


 認めたくは無かった。


 でも。


 既に、優斗の中で律が生きる意味になっていた。


 ――あの時死んでいれば、こんなに苦しい思いをせずに済んだのか?


 それは声にならず、ただ心の奥に降り積む。

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