第十八話 名もなき感情

 待機室を出た優斗と律は無言で歩く。その手はきつく握られていた。律の震えは止まっていたが変わらず俯いたままで顔色が悪い。今まで短い期間ではあるが見た事のない律の様子に優斗は不安を募らせた。父の言葉も気にかかる。


 お仕置。


 確かにそう言っていた。それがどんな物なのか、優斗には想像もつかない。しかし、この律の様子から察するにそれは世間的に非難される様なものではないのか。考えれば考える程悪い方向に思考は巡る。


 そんな非道を父がするとは思いたくは無い。だが、あの目を見た後ではそう考えるのも仕方のない事だった。


「律……」


 暗く沈む相棒に優斗はどう声をかければいいのか分からない。人を遠ざけてきた弊害がこんな形で出ようとは。


 今までなら仲違いをして去っていく友人を追う様な事はしなかった。そうなってしまったのにはそれなりの理由があったし、それを覆してまで仲を取り戻そうとは思わなかったから。


 親しくしていた友人とも関わりは薄い。たまに小説の話をしたりする程度で、昼食を一緒に食べたり、休日に遊びに出たり。おおよそ一般的に友人と呼ばれるような行動をするという事も無かった。優斗は実家の手伝いをしているからどうしても付き合いは悪くなる。だからその方が都合が良かったし、気を使わないで済むのだ。


 親友と呼べる者もいない。一人で過ごす事に支障は無かったし、団体行動は性に合わない。


 警察官を目指すならそれも受け入れざるを得ないが、それはそれ。仕事と割り切る事ができる。


 でも今は違う。律を失う事が酷く怖かった。


 突然現れた転校生。共に過ごしたのは極短い一週間。それなのに、律の痛みが優斗をさいなむ。何がそうさせるのか。それも分からない。


 共に戦ったから?


 秘密を共有しているから?


 どれも違う気がする。


 何故か律の存在が心を捉えて離さない。

 笑みの消えた顔を見るのが辛かった。


 笑ってほしい。

 それが例え狂気に満ちたものでも。


 声が聞きたい。

 無邪気な声が。


 ――なんだこれ。こんな感情、知らない。


 胸を締め付ける息苦しさに、優斗は混乱していた。どうにか律を元気づけられないか。そう思案して、新幹線の中でのやり取りを思い出していた。優斗の事を好きだと言ってはばからない律。その想いには応えられない。と、思う。少なくとも今はまだ。


 でも、律が笑ってくれるなら。


 そう考えながら、高い位置にある横顔を見つめる。そこは身長差的に無理だ。ならば、と筋張った大きな手を見る。


 今まで気にも止めなかったが、よく見ると傷だらけだ。それだけ過酷な日々を送ってきたのだろう。手の甲には大きな傷跡が縦断していた。その傷跡が無性に愛しい。


 そう思えば自然と体が動いた。


 繋いだその手を唇に寄せ、傷跡にそっと押し付ける。それは口付けと呼べるほど上手いものではなかったが、優斗にとっては初めての行動だ。衝動的にやってしまった行為にたちまち頬が染まっていく。


 不意を突かれた律の足が止まった。


 しかし、しばらく経っても律は何も言わない。反応が気になってちらりと窺い見れば、律は驚きで目を見開いていた。繋いだ手と優斗の顔を交互に視線が行き交う。


「優斗……なんで」


 手放しで喜んでくれると思っていた優斗はその言葉に少し腹を立てた。そして、拗ねた様に口を尖らせ言い訳を口にする。


「お前が、らしくもなく落ち込んでるから、少しは元気が出るかなって……。勘違いするなよ! ︎︎好きとかそんなんじゃ無いからな! ︎︎気まぐれ。そう! ︎︎ただの気まぐれだ! ︎︎お前が静かなのは、気持ち、悪いから……」


 そう言う優斗の顔は熟れた林檎の様に赤い。照れからそっぽを向く優斗の態度が可愛くて律は微笑んだ。


「ありがとう優斗。すごく嬉しい」


 そう言って自身の傷跡に口付ける。

 そしてニヤリと笑うと上目づかいで優斗を見つめた。


「これで関節キスだね」


 その言葉に優斗は更に赤くなる。


「調子に乗るなよ!」


 そう言って尻を蹴り上げれば笑い声が上がった。そして再開されるマシンガントーク。


「そうそう! ︎︎この近くにね、唐揚げが美味しい定食屋さんがあるんだ! ︎︎衣は薄くて外はサクサク、中はジューシー! ︎︎俺、薄着の唐揚げって大好き! ︎︎サイズも大きくて大満足だしニンニクが効いてて美味しいの! ︎︎ご飯もツヤツヤでいくらでも入っちゃう。お味噌汁は赤出汁でね、しじみが入ってるんだ。しかもご飯とお味噌汁はおかわり自由! ︎︎それで税込七百八十円はお得だよね! ︎︎お財布にも優しくて美味しいなんて最高! ︎︎もうお昼も過ぎてるし食べに行こっか。俺お腹ペコペコ~」


 ――う、薄着の子?


 言っている事の意味はよく分からなかったが、そこにあるのはいつもの笑顔。いつもの明るい声。


 優斗はそっと胸に手を添える。その奥はじんわりと暖かく、満たされるような気がした。


 はしゃぐ律の横顔をちらりと盗み見る。もうそこに暗い影は見当たらなかった。ほっと息を吐くと笑みが零れる。


 それを見た律が驚きの声を上げた。


「うわ~。優斗の笑顔初めて見た。可愛いな~。もっと笑ってよ。俺、優斗が笑った顔すごく好き」


 へにゃりと目尻を下げるものだから、優斗は気恥ずしくなって目を逸らす。


 そして。


「お前、やっぱ煩い」


 そう言いながら、再度尻を蹴り上げた。


 そうして二人は並んで歩く。その手をしっかり握りあって。


 まずは腹ごしらえだ。律の先導の元、定食屋「亭八」へと向かう。そこはこれからいつもの場所へと変わっていく。ここに帰ってくれば相棒と二人で笑い合う場所に。


 暖簾のれんくぐれば気のいいオヤジが出迎えてくれる。薄い頭髪にねじり鉢巻をした気っ風きっぷのいいオヤジだ。テーブル席に座れば、ふくよかな女将さんがお冷を持ってきてくれる。注文は決めていたので唐揚げ定食を二つ頼んだ。少し待って提供されたのは律の言う通り、大きくてニンニクの香りが食欲をそそる唐揚げと、丼に盛られた艷めく白米。赤出汁の味噌汁にはワカメと蜆が顔を覗かせている。向かいに座る律を見れば顔を輝かせて涎を垂らしていた。


 それに小さく笑う。


 こんな何気ない事に幸せを感じた。これからの生活を思えば、気が重くなるけれど。そこにも小さな幸せはあるのだ。


 急かす律に苦笑いを浮かべて箸を手に取ると、二人は手を合わせ、声を揃えて言う。


「いただきます」


 明日からは教習が始まり、相棒とはしばしの別れだ。その間に少しでも追いつかなければ。今の優斗には圧倒的に知識が足りない。妖刀の事や化け物の事。戦い方に守り方。相棒の、いや、二人の命を繋ぐためにもやるべき事は山積みだ。


 優斗は決意を新たにして、魅惑の唐揚げにかぶりついた。

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