第15話 暗闇に潜む

 その夜、ももは昼間に長吉と話をした座敷に政太と共にいた。花籠屋の花魁に、この部屋で待つようにと命じられたのだ。

 昼間とは打って変わり、虫の声もしない静かな夜。ももは緊張の面持ちで襖を凝視していた。


(鴉羽ってどんなお人なんだろう? 花魁だとおっしゃっていたけど、絵でしか見たことないし……。うぅ、緊張する)


「顔に、緊張してるって書いてあるよ。ももさん」

「えっ!? ほ、本当ですか?」

「うん。でも、これに関しては私も人のことを言えないからね」


 あわあわと慌てたももに対し、政太はやわらかく微笑む。少しだけ緊迫を筆ではいたような表情を襖に向け、口を開いた。


「私に出来ることは、己の信念を曲げないことだけらしい。だけど、ももさんは実際に花魁と共に外へ出る。……気をつけて」

「はい。政太さんも」

「うん」


 やがて何となく話すこともはばかられ、二人は口をつぐむ。その後もしばらくは何の音も聞こえなかった。

 状況が変わったのは、半刻程経った頃だろうか。突然襖を始めとした壁全体がわななき、ももは驚いて政太の袖を掴んだ。

 ガタッガタガタッと音はするが、湯呑も掛け軸も揺れていない。その事実が、二人に異常事態を知らせた。


「政太さん……っ」

「これは、裏の世の?」

「――その通り」

「誰だ!」


 政太の誰何を受け、襖がスパンッと開かれる。月の光を背に立っていたのは、美しい女だった。

 よく知られた遊女、花魁の衣装とはまた違う。あれほど帯は長くなく、鮮やかな模様が着物に描かれているわけではない。かといってももの来ているような簡素な着物ではなく、良い物だと一目でわかる。

 唇には艶やかな紅をはき、目元はキリリと気の強さを窺えるような美しさだ。そんな彼女の手には細身の刀が握られ、鈍く光っている。


「わちきの源氏名は、鴉鳳がほう。鴉と伝説の鳥の名を貰った、遊女の中でもはぐれ者さ」

「鴉鳳、花魁……」

「そっちが政太、んで、そっちがももだね。……二人共、わちきの言うことを今夜だけは忠実に守りな。でないと」


 鴉鳳と名乗った女は、その切れ長の目をすっと細くした。


「――アヤカシに殺されるよ」

「わかりました。貴女の言葉に従います、鴉鳳花魁」

「わたしもです」

「良い心がけでありんすな」


 くすりと微笑み、鴉鳳は雰囲気を和らげた。


「先程の揺れは、実際の揺れではありんせん。ここに巣食うアヤカシの轟き。……政太」

「はい」

「わちきたちが、アヤカシを裏の世へと帰す。、この場を離れてはいけないよ。それから、他の者に何を言われても、己の信念を曲げてはいけない。この店の全ての者は、皆、自室を出ることを禁じているからね」


 出来るかい。そう問われ、政太はしっかりと頷いた。


「はい。花魁が来られるまで、決して動かず、己の信念を曲げません」

「よし、いい子だ」


 それから鴉鳳は、政太の隣に座るももに目をやった。


「もも、あんたはわちきについておいで」

「長吉さんにも花魁と共に動くよう言われましたが、何故なのでしょう?」

「……ちょっと、確かめたいことがありんしてね」


 鴉鳳は遊女らしい言葉遣いでそれだけ口にすると、颯爽と座敷を出て行った。その背を追おうかと躊躇し、ももは政太を振り返る。すると政太は、肩を竦めて微笑んで見せた。


「いってらっしゃい、ももさん。必ず、戻って来て下さい」

「はい。必ず、政太さんのもとに戻ります」


 行ってきます。ももは政太に笑みを返し、鴉鳳を追って外へと飛び出した。

 江戸の夜は暗く、目が慣れるまで待ち切れない。ももは鴉鳳を探すために大きな声を出した。


「鴉鳳花魁!」

「大声を出さなくても、聞こえておりんすよ。もも」


 屋根に上っていた鴉鳳が跳び下り、ももの前に立つ。結い上げた長い髪の残りを後ろで束ね、しっぽのようになったそれが夜風に揺れる。

 キラリと鈍く輝く刀の刀身を見詰め、ももはごくんと喉を鳴らす。


「花魁、わたしは一体どうしたら……?」

「まずは、わちきのすることを見ていて。そうしたら、きっと貴女の中に眠る力が引き出されて来ると思うから」

「引き出され……?」


 鴉鳳のいう意味が分からない。ももはその意味を深く尋ねようとしたが、彼女の口は鴉鳳に制されたことで止まる。


「おいら、ん?」

「始まるよ。下がっていな」

「はい」


 素直に下がったももをちらっと確認し、鴉鳳はニッと歯を見せた。いい子だ、と唇が動く。

 鴉鳳は、目の前の闇に向かって声を放った。


「長吉、頼むよ!」

「承知しました」


 暗闇から声が聞こえたかと思うと、昼間に桃谷屋を訪れた長吉が立っている。彼は手に提灯を持っていたが、それをポンッと無造作に放り上げた。

 提灯は闇の中で光を放ち、長吉が次いで放った矢に射抜かれる。その火が弾けると、四方へと散って蝋燭もないにもかかわらず、その場に留まった。鬼火のように揺らめくそれを見て、ももは言葉を失う。


「あれは……」

「私は、提灯の明かりの力を借りることで、結界を創り出すことが出来るんですよ」

「結界?」

「そう、結界。結界とは、特殊な場所をこの場であり、それを創ることが出来るということです。今後この戦いが終わるまで、この場には誰も入れません」


 見て下さい。長吉に指を差され、ももはその指先の方向へと目を向けた。そして、そちらの暗闇の中に浮かぶ真っ赤な一対の目を見て言葉を呑み込んだ。

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