第7話 至福のひと時

 夜になれば、奉公人の仕事は終わりかと言えばそうでもない。番頭のように客との取引を書きつけるということはないが、店主家族の世話や店の片付けも仕事の中に入って来る。そうなれば、自分の時間を取れるのは夜も深まってからのことだ。

 ももは他の奉公人たちと同様、遅い夕餉を済ませた。そして寝る支度を始める同僚を横目に、一人で邸のとある場所へと向かう。服装は表へ出る時よりは気楽なものだが、それでも寝間着というわけにはいかない。


(だって、政太さんとの一対一の勉強会だもん)


 少しだけ身なりに気を遣い、ももは結った髪に触れた。まだ一人で完璧に結うことは難しいが、今日は同室の先輩女中に手伝ってもらったのだから大丈夫だろう。そう結論付け、逸る気持ちを抑えて廊下を行く。

 政太の部屋には明かりが灯り、彼の影が見えた。ももはそっと余計な音をたてないように膝を折ると、襖越しに声を掛ける。


「政太さん、ももです」

「いらっしゃい。入って」

「お邪魔、します」


 おずおずと襖を開け、ももはこわばった笑みを浮かべた。

 ももにとって、政太は大好きなお兄さんであり、憧れであり、今は雇い主でもある。普段仕事中は極力親しい態度を出さないように気を付けているが、この前同僚にももと政太の関係を尋ねられてしまった。ももは知識を教えてくれる師だと説明したが、相手は納得してはくれない。それ以上は何故か気恥ずかしく、仕事に逃げたものだ。

 そして、夜に異性の部屋を訪ねるということ自体にも後ろめたさがある。政太は気にしなくても良いと言うが、ももは嬉しさと気恥ずかしさが同居しているのだ。


「こっちにおいで、ももさん」

「はい。き、今日もお願いします」

「うん、お願いします」


 向き合い、お互いに向かって頭を下げた。そしてそんな自分たちが理由もなく可笑しくて、どちらともなく小さく笑い声を上げる。

 夜ということもあり、二人は短い時間で笑いを収めた。

 政太が昼間手にしていた本を出してきて、ももの前に置く。そして自分用に同じものを出してきて、ぱらっと紙をめくった。


「今日は、ここからだったんだ。……そうそう、そこ。古武術の体系的な話だったんだけど」


 政太の講義は、比較的突然始まる。ももも慣れたもので、興味津々に紙をめくりながら政太の話に聞き入った。

 皿に入れた油に芯を浸し、灯りとする。それ以外は月の穏やかな明るさが手元を照らすだけで、虫の声が響く夜。ももは低く優しい政太の声に耳を傾け、彼が教わった古武術の体系も歴史も楽しみながら覚えていった。

 時折ももが疑問をぶつけ、政太が答える。そしてまた、講義を続ける。そうやって過ごしていると、時はいつの間にか去ってしまう。


「今夜はここまでにしようか。深夜になってしまったしね」

「本当ですね、月があそこまで……」


 襖を開ければ、月が部屋に入る時に見た位置と違っている。その位置から時刻を割り出し、ももは目を見張った。

 ももは全く眠くなく、まだまだ政太と話をしていたい。しかしそれは、桃谷屋の跡取りである政太を邪魔することになる。


「……それでは、そろそろおいとましますね。おやすみなさい」

「おやすみ、ももさん。付き合ってくれてありがとう」

「それはこちらの言葉ですよ、政太さん」


 心からの言葉を口にして、ももは振り向きざまに柔らかく微笑んだ。

 政太との勉強会を繰り返すことで、ももは実家にいた時には得られなかった知識を存分に吸収していた。それが自分の喜びであると自覚したのは、ここ最近のこと。


(それだけじゃなくて、きっとこの気持ちは政太さんと一緒だから)


 一人で書庫に籠っていても、こんなに幸せな気持ちにはならない。ももはそこまではわかっていた。そこまでは承知だったが、気持ちの名前までは思い浮かばない。


(いつか、わかる時が来るのかな)


 少し怖くて、少し高揚する。胸の高鳴りを感じながら、ももは政太に頭を下げてきびすを返した。駆け出したくなる衝動を抑え、廊下を極力足音を殺して歩いて行く。

 そしてそっと奉公人部屋の襖を開ければ、同僚たちのいびきや寝言が聞こえて来る。ももは彼らを起こさないよう足を忍ばせ、自分の布団に潜り込んだ。


(今日教えてもらったのは……)


 すぐに眠ることは出来そうにない。そんな時、ももは政太の講義を反芻することにしている。そうすることでより深く内容を理解し、頭に叩き込めるのだ。

 反芻していると、やがて眠気が襲って来る。それに身を委ね、ももは朝日が昇るまで健やかに眠っていた。

 後に江戸随一の才媛と称される下地は、おそらくこの時に作られたのだろう。

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