第3章 歯車が動き出す時
第8話 指切り
半年も過ぎれば、奉公人としての仕事ぶりも板について来る。年が改まり、二月という一年で最も寒い時期を迎えようとしていた。
ももは最初の頃よりも手際が良くなり、お勢に言われる前に仕事を終えられるようになっていた。寒さに負けず汗をかきながら、仕事をこなしていく。
「ももさん、寒い中ありがとう」
「あ、政太さん。おはようございます」
その日も、朝から舞っていた粉雪の中でももは雑巾をしぼっていた。そこへ、何処かへ行く格好をした政太が通りかかる。
綺麗に汚れを落とした雑巾を桶にかけ、ももはパタパタと政太に走り寄った。そこで気付き、濡れた手を背中に回す。
「こんなに朝早く、何処かにお出かけですか?」
「そうなんだ。父の名代を仰せつかってね。遠出になるから、帰るのは夜だと思うんだけれど……」
「あの、何か?」
じっと政太に見詰められ、ももは目を瞬かせてからわずかに俯いた。彼と長く目を合わせるのは、恥ずかしくてとても出来ない。
「……」
俯くももと、見詰める政太。そろそろももの緊張が限界に達そうとしていた時、政太が庭に立っているももと視線を合わせるために膝を折った。そして、手のひらを返して差し出す。
「はい」
「え……? あの、これは……」
「後ろに隠した手、ここに乗せて」
「え? え……はい」
じっと見られ続けたももに拒否権はない。おずおずと背に回していた手を出すと、政太にさっとその手を取られた。
まさかの出来事に、ももはサッと顔を赤らめてあわあわと抵抗を試みる。手を引こうとしたが出来なかったため、口でやってみることにした。
「だ、駄目です! 拭き掃除をしていたので綺麗じゃないです!」
「そんなもの関係ないよ。……冷たい。かじかんでるじゃないか」
「これは別に、案じて頂くようなことではありません。皆、これが当たり前だとわか……っ!?」
突然きゅっと手を握られ、ももは顔を真っ赤に染める。何か文句の一つでも言わなければと思うが、言葉がはっきりと出て来ない。
そんなももの心情など知らず、政太はももの手を掴んだままでじっと何かを考えていた。そして、思い付いたのか顔を上げる。
「夕餉に温かな汁物を増やそう。それから、きちんと感謝を伝えなければならないな。わたしたちがこうやって商いに注力出来るのは、ひとえに皆のお蔭なのだから」
「あの……」
「ん?」
「あの、手を」
「……あ。ご、ごめん!」
パッと瞬時に手を離した政太は、気まずそうにももを見た。
「女の子に対して、不躾だったね。申し訳ない……」
「い、いえっ。こちらは案じて頂いた身ですので。ただ……照れくさかっただけで」
どんどんとももの声が小さくなる。政太に触れられていた指が熱く、熱を持っているように感じられた。その熱から離れ難く、ももは無意識に指を握り込むようにして両手を重ねて胸の上に置いておく。
少しの間、二人の間に微妙な気が通り抜ける。しかしそれも長くはなく、先に動いたのは政太だった。
政太は居住まいを正すと、ももに向かって真剣な顔を向ける。
「この半年間、桃谷屋で奉公してくれてありがとう。きみの顔を見かける度に、わたしももっと頑張ろうと思って、力を貰えるんだ」
「わ、わたしこそ」
つっかえそうになる言葉を捉まえて、ももは真っ直ぐに政太を見て口を開いた。
「政太さんに出会わなければ、誘って頂かなければ、奉公させて頂くことはありませんでしたし、たくさんの本を読むことも知識を得ることも出来ませんでした。だから、お礼を言わなければならないのはわたしの方です!」
「……ありがとう、ももさん」
にっこりと微笑み、政太は何かを逡巡する素振りを見せた。迷う彼の姿は珍しく、ももはこてんと首を傾げる。
「あの、政太さん……?」
「……すまない。こんなところで言うべきことではないとわかっているんだけど」
「何をですか?」
ますます、政太が何を言いたいのかわからない。困ってしまったももが彼の顔を覗き込むと、政太は顔を赤くして軽くのけ反る。
「ご、ごめんなさい!」
「い、いや。大丈夫、きみのせいじゃない」
政太を驚かせてしまった、とももは身を引いて頭を下げた。すると政太も慌てて否定し、ポリポリと後頭部を掻き視線を逸らす。
「……これからお客様のところに行って、その後師のところに寄って帰って来るつもりなんだ。だからまた、新たな話が出来ると思う。……今宵も、わたしの部屋まで来てくれないか?」
「本当ですか!? 行きます、是非聞かせて下さい!」
「よかった」
身を乗り出し目を輝かせるももに安堵し、政太は右手の小指を立てて差し出した。
「指切り。出来るだけ遅くならないよう帰って来るから、待っていて」
「約束、ですね」
ほのかに頬を染め、ももは政太の小指に自分のそれを絡ませた。密やかな約束が成され、政太は客の元へと出かけて行く。
彼を見送ったももは、指切りを交わした小指を見詰め、唇を緩める。今日という日はまだ始まったばかりだが、夜まで精一杯勤めようと改めて思う。
そのご機嫌な様子は、同僚から見ても一目瞭然で。
「ももちゃん、坊っちゃんと勉強会?」
「本当に勉強好きね」
そう言って、彼女らにからかわれるのだった。
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