第6話 桃谷屋での日常
桃谷屋に迎え入れられたももは、まず店の主人夫婦と顔を合わせた。その上で主人に連れられて店の中を案内され、各場所で働く人々と挨拶を交わす。
邸で働く女中たち、店で働く奉公人たち。それぞれに忙しそうに立ち回っていたが、ももを紹介するために主人が声を掛けると、皆一様に笑顔でももに言葉をかけてくれた。それが嬉しく、ももは懸命に人の名前と顔を一致させていく。
完璧にももが奉公人の名前と顔を覚えられたのは、それから一月後のことになる。
奉公人たちの朝は早い。東の空が白む頃、ももはあてがわれた奉公人用の部屋で目覚めた。布団を畳み、他の奉公人たちと共に支度を済ませる。
ももは女中頭の女性のもとへと出向き、元気に挨拶をした。既に女中頭はきびきびと動いており、ももたちを見付けると目を細める。
「おはようございます!」
「おはよう、もも。早速で悪いけど、これを頼むね」
「はい」
手渡された雑巾と桶を手に、裏庭にある井戸へと向かう。朝の仕事は、まず店の掃除から始まるのだ。
棚などの高い場所の拭き掃除を終えれば、その際に落ちた埃も拭くために床掃除を行なう。それから店の表を掃き清め、客を迎え入れる支度を整えていくのだ。
「おはよう、おもも。今朝も元気そうじゃねえか」
「あ、佐吉さん。おはようございます」
「おう、おはよう」
佐吉は近くの魚河岸で働く壮年の男で、ももは奉公を始めた頃に知り合った。呉服屋の客ではないが、彼の父が桃谷屋の先代と幼馴染らしく、当代も佐吉と仲が良い。
今朝も佐吉は新鮮な魚を桶に入れて持って来てくれたようだ。
「これ、裏から渡しとくから。当代に宜しくな」
「はい! ありがとうございます」
店の裏へ回るという佐吉を見送り、ももは手早く掃き掃除を終わらせた。少しずつ木々の葉が赤や黄色に染まり出し、箒に絡まるものが増えていく。
(ここに来て、もうひと月かな。もっともっと、政太さんたちの役に立てるように精進しなくちゃ)
季節は秋を迎え、掃き掃除が必須の時期となっていく。ももは己の研鑽を誓って、女中頭のもとへと駆けて行くのだった。
「お
「知っているよ。こっちはもう済んでいるから、他の者たち一緒に朝餉を食べていらっしゃい。その後、旦那様のお使いを頼むわ」
「承知しました」
ご飯、ご飯。ももはそう呟き節をつけながら、店の奥へと向かう。その軽い足取りを見送り、お勢と呼ばれた女中頭は苦笑をにじませた。
「もも、お帰り」
「政太さん、ただいま帰りました」
桃谷屋の主人のお使いを済ませたももが店の前まで戻って来ると、丁度政太が外に出て来たところだった。
政太の手には何やら四角いものを包んだ風呂敷がある。それに目を落としたももに、政太は微笑んで彼女の疑問に答えた。
「今から、
「そうだったんですね。今は、何を学ばれているのですか?」
師とは、政太が商法他様々な勉学を学んでいる人のことだ。桃谷屋に縁ある元寺子屋の師匠だということで、政太は他の者たちと共に教えを受けている。
ちなみに、そうして得た知識を覚えるためだと言って、政太は夜になるとももに講義めいたものをしている。毎晩ではないが、ささやかなその時間がももにとっての心が癒される貴重な時でもあった。
そんな事情があり、ももは政太が何を学んでいるのかを知りたかった。時折彼から借りる本は、どれも興味深くて読んでいる間に夜更かししてしまう。
(もっともっと、色んなことが知りたい。知って、覚えておくんだ。もっと)
キラキラと輝くももの瞳は、どこまでも知識を渇望していた。その理由が何処にあるのか、彼女自身もわかってはいない。わかるのは、幼い頃から求めるものを得られずにいた欲求不満がここに来て解消されつつあることくらい。
ももの好奇心溢れる目に見詰められ、政太はするりと風呂敷包みを解いて見せてくれた。そこに入っていたのは、武道の解説書だ。
「最近は、これなんだ。本当に動いて覚えるのは不得意だけど、こうやって知識として得ることは出来るから。それに、知らないことを知るのは本当に楽しい」
「はい、おっしゃる通りですね。……あ、ごめんなさい。足を止めさせてしまって」
「ふふ、構わないよ」
ももが顔を赤くして一歩下がると、政太は軽く首を横に振った。
「行ってきます。また後でね、ももさん」
「はい。いってらっしゃいませ、政太さん」
ぺこりと頭を下げたももに手を振り、政太は人混みに消えていく。ももは顔を上げると「よし」と一人手を握った。
(もっともっと、お役に立つんだ!)
決意を新たに、何となく政太の姿を探して日本橋方面に目をやるもも。しかし彼の姿を見付けられるわけもなく、ももの背中にお勢の声が飛んで来た。
「もも、帰ったの? こっちを手伝ってくれる?」
「はい、ただ今!」
勢い良く振り返ったももは、番頭に桃谷屋への文を預けた。そして早速、お勢のもとへと駆けて行く。重い着物生地の束を手渡され、落とさないように気を付けながら店内へと運び入れた。
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