第2章 江戸での奉公
第4話 物語
政太とももが初めて出会ってから一年後、彼は確かに約束を果たした。山桃の実が実る季節、すなわち初夏の日に戸を叩いたのだ。
事前に文を貰い知っていたとはいえ、ももは胸のドキドキを抑えるのに苦労しながら戸を開いた。頬が上気し、跳ねたい衝動を噛み殺す表情は、両親にはバレバレだったが。
「い、いらっしゃいませ。政太さん!」
「久し振りだね、もも。息災そうで何よりだ」
「ありがとうございます」
弾む声で挨拶を済ませたももは、江戸の土産を彼女の両親に渡す政太を待った。そして彼の手を引き、外へ出る。
政太はおそらく、家にやって来た時に山桃の木を見ているはずだ。だから驚きも何もないだろう、とももは内心苦笑する。
(それでも良いよ。こうやって、政太さんにまた会えたんだから)
二人が向かうのは、自宅を出てすぐのところに立っている山桃の木の傍。見上げる程の高さではないが、今年大風に会ってない木は美しい実をつけていた。幾つもの数え切れない数の赤い実をつけ、風に揺れている。
ももは堪え切れなくなり、弾むような足取りで歩き、実を指差した。
「見て下さい、政太さん。たくさんなっているでしょう!?」
「本当だ、これは凄い」
「きっと、去年大風で身を落としてしまったのが悔しかったんです。今年こそはって、木が頑張ってくれたんだと思うんです」
「ふふっ、本当にそうだ。……お蔭で、素敵なものを見られた」
ありがとう。そう言われて、ももはくすぐったい心地になる。どういたしましてと呟いて、やわらかな風になびく山桃の木を見上げた。
(あなたのお蔭で、また政太さんに会えた。ありがとう)
山桃の木が応じるはずもない。しかし、ももは目を細めて心の中で礼を言った。
「……」
「……」
さわさわと流れる風に身を任せ、二人はただ寄り添う。それだけのことだが、何にも代え難い時だとわかる。
ももは山桃の木に背中を預け、そっと隣を盗み見た。すると、目を閉じて風を感じている政太の姿が目に入る。きゅっと胸が締め付けられる心地がして、ももはその痛みから目を背けるために口を開いた。
「あの、政太さん」
「どうかした?」
「去年、貸して下さった本を読み終わったんです。とても心揺さぶられるお話で、政太さんと語らうのを楽しみにしていました」
おずおずと言い出すももに、政太はパッと目を輝かせる。
「そうだろう? よかった。ももさんなら、気に入って最後まで読んでくれるんじゃないかと期待していたんだ」
「だとしたら、大当たりです」
「じゃあ、ももさんが本を読んでどう思ったのか、聞かせてもらっても良いかな?」
「はいっ」
ももは嬉々として本の中身について語り始めた。
政太がももに貸したのは、とある田舎娘の出世物語である。
娘は貧しい家に生まれ、きょうだいが多く、口減らしのために遊郭へ売られることとなった。
そして弱冠八歳だった娘は、
「最初のお話の始まりは本当に切なくて、辛く感じました。日々の食べ物にも事欠く暮らしを苦にして娘を売らざるを得ない、そんな親御さんたちの気持ちも悲しくて」
「大抵の読者は、ここで脱落するのだと聞いたことがる。それでも読み続けられたかい?」
「はい。政太さんに勧められたお話ですから、最後まで読みたくて」
ももは照れ笑いを浮かべ、そしてまた真摯な表情に変えた。
「でもその後、娘には様々な困難が降りかかるんですよね。頭が良いから同期の禿たちに意地悪されて、辛くて悲しくて泣いていた時、同じ禿の子に励まされて。二人はその後も支え合う友だちになる……。ここで泣いてしまいそうでした」
娘はその後も友と仕えていた太夫に支えられ、
「琴も三味線も扱え、更に和歌までこなす。更に床上手となれば、客が付くのは早かった。顔の美しさもあったのは、女衒の見る目があったという言い方も出来るけれど。賢さから生まれる知的な美しさも併せ持っていたんだろう」
「そうですね。……そして、花魁となった娘に運命的出会いが訪れる」
何人もの客を取り、傷付きながらも目標である太夫を目指す娘。その中で唯一、本気で恋焦がれた男との出会いがある。呉服屋の
彼と客の目的は、花魁と夜を共にすることではなく、その芸事を楽しむこと。綺麗に遊んで行った男は見目も良く、娘は彼の訪れを心待ちにするようになる。
「けれど、遊郭で遊ぶのには大金が要る。呉服屋の跡取りとはいえ厳しく育てられてきた男はそれ以後遊ぶ客として遊郭を訪れることはなく、いつも接待で使うだけ。娘は手練手管で男を呼ぼうとするが、全くなびかないんだ」
「はい。それでもどうにかして、と躍起になる娘が可愛らしく思えて……。そして、切なさに一人涙する彼女を見るのは、創りものだとわかっていても辛かったです」
やがて娘は男への想いに蓋をし、太夫となるための道を邁進する。男への気持ちを忘れるために、ただがむしゃらに進み続けたのかもしれない。
「……いつしか娘は太夫となり、客を選べる立場となった。そしてその後も男たちを翻弄しながら、身請けを待つのですよね」
「ようやく彼女を身請けしたのは、奇しくも初恋の君と同じ呉服屋の旦那だった。後添いとしての身請けだったが、娘はようやく安穏の地を得た……」
花魁として太夫という最高位を得、更に身請けされて穏やかに暮らした。しかし、娘の最後については言及がないままに本は終わる。
「人によっては、病によって没したために描かなかったとか、死を描くのが辛かったからという人もいる。けれど、一人の人間の一生を描いたという点で、これは素晴らしい作品だと思うんだ」
「死まで描くことなく、娘が望む形でお話を終えた。そう取ることも出来ますよね」
「そうであったとしたら、作者は余程娘に入れ込んでいたのだろうね」
政太は微笑むと、ももから本を受け取った。優しく表紙を撫で、膝に置く。
「別の本も持って来ようかと思ったのだけど、商いの帰り道なんだ。商いにきみへの本を持って行くのは気が引けてね。……次、また持って来るよ」
「また、お会い出来るんですか?」
信じられないといった顔で、ももは目を丸くする。それに対し、政太は「当たり前だろう」と笑ってみせた。
「父もきみをいたく気に入っている。時が来たら、是非桃谷屋を訪ねて欲しい。これは、私が本気でそう思っているんだ」
「――はい、必ず」
小指を絡ませ、約束を交わす。
それからまた一年後、ももは江戸へ行くことになる。幸いだったのは、それがももの意思であり、物語の娘のように口減らしでは決してなかったことだろう。
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