第3話 約束

 朝餉あさげを済ませ、片付けも終える。空は昨晩の暴れようが嘘のように晴れ渡り、小鳥が鳴きながら飛んで行く。


「本当に、お世話になりました」

「いえいえ、こちらこそ。滅多に聞けないお話を伺えて、とても楽しかったですよ」

「道中お気を付けて」


 大人たちの会話が耳を素通りしていく。はぼんやりと桃谷屋と両親の話を聞き流しながら、政太のことを見詰めていた。本人に見詰めていた自覚はないが、傍から見れば一目瞭然である。

 そんな娘に対して何を思ったか、ももの母が彼女の肩をポンッと叩いた。


「ほら、もも」

「あ、うん。政太さん、桃谷屋さん、お元気で」

「ももさん、きみと話せてとても楽しかったよ」

「わたしも、です」


 しゃがんで目線を合わせてくれる政太に、ももはにこりと微笑んだ。彼女は何とか泣きそうなのを我慢していたが、間近で見ていた政太には涙で潤んだ瞳が見えていただろう。

 政太は困ったように微笑み、大人たちに聞こえない位の声で囁いた。


「来年、必ず会おう」

「――っ、はい」


 親しげに笑い合う二人を見ていた桃谷屋は、ふと思い出したかのようにももの両親に向き直った。そして何やら話し合い、くるりと振り返るとももを手招いた。


「ももさん、ちょっと。政太も来てくれるか?」

「何か、あったのですか?」

「父上?」


 近寄って来た二人を前に、桃谷屋は「実はな」と内緒話をする時のように楽しげに口を開いた。


「昨夜、ももさんが政太の持っていた本を楽しそうに読んでいただろう? 親御さんたちに訊けば、寺子屋でも文字を読むのが大層得意で、好きだというではないか。だから、一つ提案させてもらったんだ」

「提案、ですか?」


 何を言われるのかわからず、ももは首を傾げた。隣に立つ政太も父が何を言おうとしているのか見当もつかず、困惑の表情を浮かべている。

 そんな二人を前にして、桃谷屋の話は続く。


「そう。聞けば、ももさんはたくさんの本を読みたいという夢を持っているそうだね。そしてご両親に伺えば、よく家の手伝いもする働き者だとか。私はそれを聞いて、お二人に頼み事をしたんだ」

「頼み事? 父ちゃん、母ちゃん、何を頼まれたの?」


 ももに問われ、父は少しだけ寂しそうに、しかし本当に嬉しそうにそれを口にした。


「それはな、もも。お前が奉公に出るとなったら、桃谷屋の戸を叩いて欲しいとおっしゃられたんだ。そこで奉公しながら、本を読み、生きる術を身に着けては如何かと提案されてな。母さんとも相談したが、お前にとってもこれは良いことだろうという結論に至ったわけだ」

「わたしが、桃谷屋で奉公を……?」

「そう。何も、奉公をするのは男ばかりではない。女でも男でも、私が店に欲しいと思った者には声を掛けているんだ。それに」


 ちらりと桃谷屋は息子に目をやる。彼は父の突拍子もない行動には慣れっこだが、今回はどうか、と様子を盗み見た。

 すると政太は、口元を手で覆っている。そのために表情ははっきりしないが、桃谷屋は己の判断が間違っていないことを確信した。


「それに?」

「ああ、それは秘密だ」


 ももへの回答を有耶無耶にして、桃谷屋は彼女と目の高さを合わせるために膝に手をついた。好奇心と知識欲に満ちた少女の目は、きらきらと朝日を反射して輝いている。

 輝く瞳。たったそれだけのものを持つことがどれだけ貴重なことか、桃谷屋は目元を和ませる。


「どうだろうか、ももさん。来てくれるのはいつになっても構わない。出来れば私が当代である間にと思うが、桃谷屋を訪ねて江戸に来て欲しいと思う。私と政太は、きみが来てくれるのを待っているよ」

「――ありがとうございます、桃谷屋さん。わたし、絶対に行きます!」

「そうかい。楽しみだ」

「……待ってるよ、もも」


 桃谷屋と政太に誘われ、ももは村を出る決意を固めた。

 しかし本当に桃谷屋の門戸を叩くのは、それから二年後の話である。ももが十二歳の年のことだ。

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