第2話 山桃の木

 嵐は夜のうちに去り、明けた朝は澄んだ心地がして気持ちが良い。白んで来た空を見ながらは一人家を出て、表でうーんと伸びをしていた。

 ふと目を移すと、山桃の実が全て落ちているのが見える。落ちて、転がって行ったものも多いのだろう。木の根もとには前日に見た実の数以下しか残っていない。


「やっぱり、あの大風には耐えられなかったか……」


 木の傍に立ち、幹を撫でてやる。十年以上もこの場に立ち続けている山桃の木は何とか踏み止まり、嵐の後追いをする風に吹かれて揺れていた。

 思わずため息をつき、ももは何とはなしに木の幹に背中を預けて座り込んだ。爽やかな風が頬を撫で、思い出すのは昨夜のこと。


 桃谷屋ももだにやと名乗った商人は、すぐにももの両親と仲良くなった。彼が持っていた酒の力もあるが、それよりも各地を商売で歩くという彼の話が面白かったのだ。


「そして、私たちは山賊から逃げるために……」

「はぁぁ、そんなことがねぇ」

「よくご無事で。大変な道のりですね」

「命あっての物種ですよ」


 大らかに笑う商人の話を、ももの両親は熱心に聞いていた。もももそちらに興味はあったのだが、それよりも気になる存在がいた。商人の息子、政太せいたである。

 政太は父の話に耳を傾け相槌を打ちながら、黙々と自分の荷を改めていた。

 何かの書きつけや、筆を始めとした道具の類。更に江戸に持ち帰るのであろう品々の具合を確かめ、終われば荷の中に戻していく。

 ももはそれをじっと見詰めていた。


「……何か、気になるのかい?」

「え? あ……じっと見ててごめんなさいっ」

「いや、構わない。普段目にしないものも多いだろうから」


 慌てて謝ったももに対し、政太は穏やかに対応する。

 四歳年上の少年の持つ荷の多さに驚きつつ、ももはあるものに興味をそそられていた。それは、政太が大切そうに背中の荷物とは別に懐に入れていたらしい一冊の本。


「あの、それは?」

「これ? ああ、商いの師匠に頂いた本なんだ。商いにおいて大切なことが書かれているからと言って、わたしにくださった」

「あきない……」

「ふふっ。読んでみるかい?」

「良いのですか!?」


 目をキラキラと輝かせたももに対し、政太はくすっと笑って本を手渡した。勿論、と頷いて。

 受け取った本の表紙を眺め、ももは早速紙を繰った。表紙には、達筆で『商理論』と短く記載されている。

 夢中で紙を繰るももをにこにこと眺める息子を見て、商人の男は「ほう」と感嘆の声を上げた。


「あの書は、商いをする者たちにとって必読の書だと先代から聞かされておりましてな。私も若い頃読んだものですが……まさか旅先で興味を持つ子に出会うとは思いませんでした」

「女なのに、珍しいでしょう?」


 商人の言葉に応じたももの母は、小さく微笑んだ。


「あの娘は、寺子屋に入ってすぐに文字を読むことに目覚めたらしくて。家には本などありませんから、毎日寺子屋で学ぶことを楽しみにしているのです」

「父も母も、文字に興味を持つことなく生きてきましたからな。誰に似たのかはわかりませんが、楽しそうにしていてこちらも嬉しくなるのですよ」

「ほう。賢いのですな……」


 娘の本好きを好ましく思う両親と、ももを興味深く見ている商人。彼らの思惑など知らず、ももは政太にわからないことを尋ねながら読み進めて行った。

 そして夜半を過ぎ、布団の上で二人して寝落ちてしまったのだ。ももは目覚めた時、隣に政太がいて息をするのを忘れる程驚いた。

 驚き、冷静さを取り戻すために密かに家を出たのだ。ようやく気持ちが落ち着き、そろそろ戻ろうかとももが考え始めた時だった。

 すぐ傍に足音が聞こえる。振り返ると、そこには爽やかな見た目の少年が立っていた。


「朝早いね、もも」

「あ……政太さん。お、おはようございます」

「おはよう」


 落ち着いた声が耳をくすぐり、ももは思わず自分の耳たぶに触れた。カッと頬が熱くなるのを感じたが、政太が気にする様子はない。

 政太はももの隣に立ち、彼女が先程まで見上げていた山桃の木を見上げた。


「これは、何の木?」

「山桃の木、です。わたしが生まれた時にはもうここに植わっていて。……毎朝、挨拶するのが日課なんです」

「良い日課だね。これは、昨晩の嵐の影響かな」

「たくさん実がなっていたんですけど」


 至極残念だという顔で落胆するももに、政太は「そうだね」と肩を竦めてみせた。


「私も見てみたかったな。この時期、甘酸っぱい山桃はさぞかしおいしいだろうな」

「……あの、だったら」

「ん?」


 自分よりも背の高い政太を見上げ、ももはドキドキと拍動する胸に手を当てて思い切った。息を吸い込み、一気に思い付いた言葉を発する。


「――来年、山桃が実る季節になったらいらっしゃいませんか!?」

「へっ!?」


 目を見張る政太を見て、ももはハッと口を手で覆った。やってしまった、と顔を青くする。


(政太さんは、これから江戸に戻るんだから。もうここに来ることはないのに)


 思い付いたことをそのまま口にした自分の浅はかさを悔いたももは、すぐさま撤回しようとした。しかしうまく言葉が出ず、理玖でおぼれているような錯覚に陥る。


「あの、ごめんなさい。その……」

「……いいな、それ」

「え?」


 しどろもどろになって俯いたももは、ふと洩らされたらしい政太の言葉に顔を上げる。すると政太は、にこりと微笑んでももと視線を合わせた。右手の小指を立て、ももの前に差し出す。


「来年のこの季節、もう一度ここで会おう。約束」

「ほ、本当に?」

「うん。実は昨日の夜、本当に楽しそうに本を読んでいたから、きみに一冊読んで欲しいと思う本があるんだ。それを読んで、会った時にどう思ったかを教えて欲しい」


 そう言うと、政太は携えていた和綴じの本を一冊差し出した。ももは受け取り、表紙を見る。そこには丁寧な文字で『山桃想記』と書かれていた。


「『やまももそうき』?」

「『さんとうそうき』と読むんだ。山桃の名を持つ一人の女の物語でね。男の私が読んでも面白いんだよ」

「嬉しい。ありがとうございます」


 本を胸に抱き締め、ももは笑みを零した。政太が面白いと思った物語を自分に呼んで欲しいと渡してくれた、それが本当に嬉しかったのだ。

 ももの喜びようを見て、政太も笑顔になる。

 二人はももの両親が呼びに来るまでの間、隣同士に座って話し込んでいた。

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