紅に咲く―山桃花魁記・はじまり―

長月そら葉

第1章 運命という出会い

第1話 風雨の夜

 の家の庭には、山桃やまももの木が植わっている。木は少女が生まれる前には既に生えており、少女の成長と共に枝葉を伸ばしてきた。

 夏になれば赤く熟れた甘酸っぱい実をつけ、目にも楽しく、口に入れてもまた楽しい。毎年夏を楽しみにしていたももは、その暑い日もまた、山桃の木を見上げていた。


「もも。そろそろ家に戻れ」

「父ちゃん、おかえり」

「ただいま」


 声をかけられ顔を向ければ、顔を泥だらけにした彼女の父が立っている。田んぼでの仕事を終えてきたらしい。

 腰をトントンと叩きながら、父は雲に隠れて見えない夕焼けを眺めた。どんよりと暗い色をした雲は、幼いももの心に不安を感じさせる。


「もうすぐ嵐が来る。母ちゃんにも伝えてやれ」

「わかった。父ちゃんは?」

「俺は、これを片付けたらすぐに行く。……どれだけ降るかな」


 パタパタと走って行く娘を見送り、父は眉を寄せる。


 ――ガタガタッガタンッ

 その夜、父の読みが大当たりした。

 決して強いとは言えない家の様々なところできしむ音が聞こえ、大風おおかぜが壁にぶつかって来る。ももは母にしがみつき、恐ろしさに震えていた。


「母ちゃん……怖いよ」

「大丈夫、大丈夫よ。嵐が過ぎ去れば、実りをもたらしてくれるから」

「その前に、家がふっとんじゃわない?」

「そうならないよう、つっかえ棒もしているけれどね」


 父はといえば、平気なふりをして農具の手入れをしている。しかしその眉間にはいつも以上にしわが寄り、嵐を気にしているのがありありとわかった。

 布団を敷こうとした母だったが、ももが怖がって離れないために立つことも出来ない。弱ってため息をついた時、外から不自然な音が聞こえた。風が戸を打つ音では決してない。


「こんな天気に、こんな時に、一体どなた?」

「おい、お前……」


 父が制するのを聞きもせず、母は戸に手をかける。そしてわずかに開けると、外の大風が吹き込み、室内の皿が転がり一枚割れた。

 ももが「あっ」と声を上げるよりも早く、外側から戸を掴む手がある。そして、戸の隙間からびしょ濡れの男が姿を見せた。


「こんな夜更けに、それも嵐の日に申し訳ない。一夜、一夜で良いから私と息子を泊めては頂けませんか?」

「泊める……?」

「実は、庄屋にも掛け合ったのですがすげなく断られ……江戸に戻るためにも、お頼み申します」


 大雨と風に遮られ、家の奥にいたももには半分も聞こえない。しかし、外にいる男が心底困っていることだけは理解出来た。

 だから、風雨の音と時折聞こえる雷の音に怯えていたはずの自分を叱咤し、立ち上がる。ももは困惑顔の母の横に立ち、父に尋ねた。


「父ちゃん、泊めてあげようよ」

「だが、押し込みってこともあり得るだろ」

「この家に、押し込みに入って得するものがある?」

「……ねぇな」


 胡坐をかき、父は苦笑した。

 貧乏な中で米を作って生きているももたちの家に、押し込み強盗が入ったところで金品はない。それはももだけではなく、父も母もよくわかっていた。

 ならば、とももが母に代わって戸を開けた。雨風が容赦なく入って来るが、外で待っている男たちを家に入れるためには仕方がない。

 ガタガタとたてつけの悪い戸を開き、ももはずぶ濡れの男を見上げて微笑んだ。


「何もない家ですけど、それでもよかったらどうぞ」

「有り難い。本当にありがとう、お嬢さん」


 男は濡れそぼった笠を掲げ、礼を示す。彼の後ろには、男の息子が立ち竦んでいた。親子どちらも大きな荷物を背負っていたが、細身の彼は背中の荷物に今にも潰されてしまいそうな程危うく見える。


「さあさ、体を拭いて下さいな」

「何もお構い出来ないが、体を温めてくれ」

「有り難い。世話になります」


 大人たちはすぐに打ち解け、わいのわいのと話している。

 それを背に聞きながら、顔を風雨で濡らしてももは声を上げることすら出来ないでいた。軒下に入って来た少年の顔を見て、固まっている。


「……きれい」

「?」


 首を傾げた少年は、何かを言うでもなくももをじっと見詰める。自分のその行為が、彼女の胸を否応がなく高鳴らせていることにも気付かずに。

 顔立ちの整った少年は、まるで何処かの役者のようだ。本物を見る機会などないももだが、庄屋の娘や年嵩の女たちが騒ぐ話だけを聞いてきた。そこから想像した顔立ちに、少年はそっくりだと思ったのだ。

 ぼーっと自分を見詰める少女に少年はようやく問いかける。目を瞬かせ、遠慮がちに。


「あの?」

「あ、ごめんなさい。あなたも入って下さい」

「……ありがとう」

「――っ」


 目元を和ませ、少年が微笑む。それだけで、ももは自分の顔が真っ赤に染まるのを自覚した。気持ちが浮足立ち、どうして良いのかわからなくなる。

 しかし、彼を塗れたままにはしておけない。ももは体をずらし、少年を家の中へと招き入れた。

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