挿話 遠い記憶、森の生活

 遠い、遠い記憶。


 記憶の始まりは、森の木。朽ちた木から枝を受け取る。

 枝を引きずりながら持ち帰ると、みんな呆れた顔をしていた。

 苦笑いする人。睨む人。

「ご無事でよかった」

 心配してくれていたのは、じいやだけだった。

 じいやはみんなと違って、首に金色の輪っかをつけていなかった。

 金色の輪っかのことは触れてはいけない。みんな、嫌な顔をするから。


 じいやはふとしたことで

 「すみません」

と謝る。それは今何か悪いことをしたのではなく、森の木より前の、私の知らない記憶の中での出来事への謝罪。

「私がいながら、あのようなことに…」

 どうして謝るのかわからなかった。


「私がお嬢様の部屋で夜を過ごすなど、いけないことです」

 じいやは自分が男の人だから、と、お熱が出ても、雷が鳴って雨がざあざあ降って恐かった時も、遠くで獣の遠吠えが響いた時も、お部屋に一緒にいてくれることはなかった。

 代わりに来たアリスは、お熱の時はお薬とお水を置いていなくなってしまった。飲んでも「面倒をかけて」、飲めなくても「高い薬なのに」と、溜め息をつかれた。

 風や雷や遠吠えが恐くても、そばにいてくれる人はいなかった。布団の中に潜り込んで、枕にすがり、耳をふさいで時が過ぎるのを待つしかなかった。


 足りない食料を補うため、庭は畑になった。

 誰も畑を耕したことなどなく、せっかく手に入れた苗は堅い土に根付かず、萎れていった。水をやり、祈りを捧げると、願いが通じたのか枯れかけていた苗が息を吹き返した。


 誰かが「森の女神」と言った。死にかけて生き返ったから神となり、不思議な力を得たのだと。

 誰かが「大地の魔女」と言った。そういう家系だからと。

 誰かが「森の魔女」と言った。変な木の棒を持って帰ったからだと。

 どれも私のことを言っているようだったけれど、本当に祈りのせいで苗が育っているかなんてわからなかった。けれど、みんな私の祈りを期待していることはわかった。

 本当なら「お嬢様」が土の上に裸足で立つのはよくないことなのだとじいやは言った。でも、それを止めることはなかった。じいやはまた涙ぐむ。

「あの時、大地に触れることを止めなければ…」

と。

 それは私じゃない誰かへの言葉。


 ある日、じいやが農作業の途中で突然胸を押さえて倒れ、そのまま帰らぬ人になった。


 じいやの息子のトーマスがじいやの代わりになった。それ以来、いつもどこからか送られてきていた荷物が変わっていった。

 今までなかったお酒が増え、子供用の服はサイズが大きくなり、本や画材、ノートや筆記具は送られてこなくなった。

 週に二回、森の外から来ていたお勉強の先生も来なくなった。じいやのように教えてくれる人もいない。

 一人で本を見ながらわからないことを聞くと、「私にそんなことを聞くなんて、何の意地悪ですか」と怒られた。聞ける人はいなかった。


 部屋にあった宝石箱を出すよう言われた。

「お金が足りないんです。ここのみんなのためですよ。高貴な方が下々に施すのは、当たり前のことでしょう。こんな森の中で宝石なんて持っていたところで、何の役にも立たないのだから」

 半ば強引に持っていかれた。お母様の形見だと言われていたのに。

 人形は、新しく生まれた子供が使うからと持ち去られた。

 いつの間にかリボンもなくなっていた。

 弦が切れたまま、直してもらえなかったバイオリンも。

 壁の小さな絵も…。


 届く服が大きいので、フリッツの娘アデルが着ることになった。まるでアデルに合わせたかのようだった。アデルのおさがりをもらったけれど、小さくなった服は届いた服の半分も残されてはいなかった。

「私の服を私がどうしようと勝手でしょ? 人から譲ってもらっておいて、生意気ね」

 送られてきた服は私のものではなかったのだ。ずっとそうだったから、勘違いしていた。

「ごめんなさい」

 謝ると、すごい目で睨まれた。


 書斎の本が減っているのに気が付いて、まだ使いたい本を自分の部屋に運んだ。クローゼットにもベッドの下にも隠した。

 本が減る時は新しい服が届いた後が多かった。アデルが服や本を売っているのかもしれない。金の輪をつけていないアデルなら、自由に外へ行けるから。

 だけど送られてくる服自体が回を追うごとに減っていき、アデルは不満げだった。



「アーレさん」

 誰かがそう呼び始めた。「お嬢様」や「アーレ様」と呼ばれるよりは親しみがあるように聞こえて嬉しかった。

 勉強の代わりに火のおこしかた、水を汲むこと、食事の準備の仕方、後片付けを教わった。

 食事を作る当番の中に私も加わった。

 お掃除もお洗濯も習った。

 鶏の卵を拾ってくるのも、森の中の食ベられる物を取ってくるのも私の仕事だった。

 私が耕した畑は一番作物がよく育つので、収穫の時はみんな機嫌が良かった。

「これこそ、王がアーレさんに教えろと言ったことだ。庶民が絵だの、音楽だの、気取ったものを習えるかってんだ」

 トーマスがそう言った。でも、王様が私に何かを教えろなんて言うだろうか…。

 王様なんて、一度も会ったことがないのに。



 アリスに子供ができた。

 夫になったドナルドに、アリスと子供のために家を替わってほしいと言われた。もう家族で住める一軒家はないから、と。

「アーレさんは一人なのだから、向こうの家で充分ですよね?」

 それは、農作業の休憩に使っていた小さな小屋だった。

 暖炉があり、奥にもう一部屋ある。一人で暮らすなら充分…。

 そこに移る条件に、本はすべて持たせてほしい、そう言った。

 誰かが「ちっ」と舌打ちしたけれど、その条件で家を替わることになった。


 小屋を片付けるのはみんな手伝ってくれた。ベッドと机以外何もない小さな小屋で、床には絨毯とも言い難い布が敷かれた。

 自分の部屋から本棚を運んでもらい、本も運んだけれど、運んでいる間に何冊か減っていた。布団は持って行っていいと言われた。森に来てからずっと使っていたものだった。

 自分の服は三枚、靴は一足しかなく、下着や帽子、筆記用具などをまとめても鞄一つと箱一つに収まり、あっという間に引っ越しは終わった。

 小屋は壁も薄く、壁の隙間は板で補強した。冬は寒かったけれど、小さな部屋だったので火を焚いていれば何とか凌ぐことができた。

 一月に使えるろうそくの数も減らされた。出来るだけ夜は早く寝るようにした。



 やがて、外からの荷物が来なくなくなった。「王が変わったからだ」と誰かが言った。

 あと二年の我慢、誰かが言った。

 どうしてこんな目に遭わなければいけないんだ、と誰もが嘆いた。


 売るための作物を作らなければいけない。食べる以上にたくさん。

 祈りを期待する目。収穫を喜ぶ顔。

 具合が悪くなって寝ていても祈りを求められた。困っていると、空の上から咆哮が聞こえた。

 竜だった。近くの洞窟に住み着いた竜が畑の上を飛び、みんな慌てて家の中に逃げ込んだ。数日そんなことが続き、魔女を怒らせたから竜が来たのだと言って、祈りのために無理に外に連れ出されることはなくなった。

 私は魔女ではないけれど、竜が守ってくれたような気がした。

 それから、みんなますます私から距離を取るようになった。

 強要はされなくなったけれど、祈りは期待されていた。「森の魔女様」。その名に込められているのは恐れと要求だけ。



 その日は突然やってきた。

 悲鳴のような歓声が沸き起こり、見るとみんなの首にあった金色の首輪が消えていた。

 バタバタと走り回るみんな。

 荷馬車に荷物が積み込まれていく。

 奥の屋敷でケンカの声。トーマスが殴られていて、みんなでお金を分け合っていた。この集落にあんなにお金があったなんて。

 奥の家で飼っていた鶏小屋が開け放たれた。鶏が逃げていく。

 畑はあちこち踏まれ、収穫間際だった野菜が倒れても誰も気にしない。

 畑の中でただ立っているしかない私を、誰もが見て見ぬふりをした。


「森の魔女様が森から離れる訳には…」

 誰かがそう言った。

 少しの沈黙。そらされる視線。

 ピシッ。

 馬を打つ音。

 そして、荷馬車に乗ったみんなは、家のドアも閉め忘れたまま、慌てたようにここから出て行った。殴られたトーマスもその中にいた。



 追いかけるべきだった?

 置いて行かないで、と言えばよかった?

 でも、いつかこうなることはわかっていた。

 みんなどこかへ帰りたがっていた。特にこの二年は毎日を指折り数え、いつその日が来てもいいように準備をしていた。


 誰もいなくなって、静かになった。

 倒れた野菜の支柱を立て直す。

 馬もいなくなった。

 鶏も逃げて行った。


 奥の家に入ってみた。そこはもう自分の知っている家ではなかった。

 家を出るために散らかしたのか、ずっと散らかっているのか、それさえもわからない。床に散らばるお酒の空き瓶、たばこの吸い殻、紙切れ、古い新聞、食器…

 家の中にはもう本は残されていなかった。ろうそくや調味料、紙、使えそうな物を集め、もう誰もいない家の扉を閉めた。



 三日後の街の市に一人で行ってみた。背中に背負った野菜は重かった。

 私が残っていることに街の人は驚いていた。

「一緒に行かなかったの?」

と聞かれて、

「どこに?」

と答えると、一緒にいたみんなはこの国の人ではなく、自分の国に帰ったと教えてくれた。

 みんな、帰るところがあったのだ。


 市にはこれからも参加していいと言われた。だけど物はなかなか売れなかった。事情を知っている人がその日持ってきたものを買い取ってくれた。


 遠くに集落で飼っていた馬がいた。馬は売られ、売ったお金もみんなで分けて持って行ったと聞いた。買い戻すようなお金はなかった。


 大丈夫。

 馬がいなくても、歩けばいいのだから。

 火を起こす方法も、水の汲み方も、ご飯の作り方も知っている。

 魚や鳥やうさぎを捕まえる方法も、捌き方も知っている。

 お金を稼げば、街で物が買えることだって。

 洗濯用の石鹸だって残っていた。

 小さな家の掃除は苦にならない。

 家の修理だって、壁の隙間を埋める釘打ちくらいならできる。

 畑を耕すのなら私が一番上手だった。…もう誰と比べることもないけれど。



 思えば、さよならも言わなかった。

 私は、さよならさえも必要ないほどに、置いて行かれた厄介者だった。

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