第24話 許し

 目が覚めて、アーレは自分がいつの間にかまた眠っていたことに気がついた。傾いた日差しが、あれから数時間経過していることを示している。

 少し体のしびれが和らいでいた。あの時無理矢理飲まされた毒がようやく効き目を失ってきたのだと、ほっとした。

 あれからどれくらい日数が経っているのかはわからない。農園の仕事も黙って休んでしまい、みんなに迷惑をかけている。


 ゆっくりと上半身を起こそうとしたが、うまく力が入らない。

 体をひねり、腕の力を使ってようやく上腕の高さだけ体を起こすことができた。そのまま手のひらで体を支えようとしたものの、ふらついて枕に顔をうずめた。

「無理するな」

 後ろから声をかけられ、支えられながら上半身を起こし、背中に置かれた枕にもたれかかってようやく息がつけた。

「馬車の手配が着いた。明日、家に帰ろう」

 アルトゥールの言葉に、こくりと頷いて答えた。

 きっと道中は寝てばかりになる。馬車の操縦も代わることはできないけれど、自分が戻ればアルトゥールも仕事に戻れるだろう。何日か診療所に入院することになるかもしれないが、体力が戻れば、あと一月のお勤めを果たして、そして…。

 当たり前のことを思い描いただけなのにざわつく心を、目を閉じてそっと押さえ込む。


「…目が覚める前に飲ませときゃ良かったな。仕方ないか。…これは逃れられないからな」

 そう言うと、アルトゥールは鞄から植物の茎を出し、葉をちぎった。

 ものすごく嫌そうな顔をして、それでも覚悟を決めて口に放り込む。

 表情から、何だかものすごくまずそうに見えた。それなのにどうして口にするんだろう。さらに一枚、追加でもう一枚。

 のんきにその様子を見ていると、水を口に含んだアルトゥールにいきなり両手で顔を押さえつけられ、否応なく口を押しつけられた。

 口に含まされたものは、まずいなんてものではなかった。

 酸っぱいのに、苦く、変に甘ったるさもあり、匂いも好ましくない上、えぐみまである。

「んぐっ!」

 何の嫌がらせ!!

 アーレは思わず払いのけようとするも、手はうまく動かず、顔がしっかり固定されていて、どうすることもできない。

 全て飲み尽くすまで解放されず、ようやく飲み終わった後は

「うええええええっ」

とひどくえずいてしまった。

 我慢できない、顔を歪ませるひどい味がいつまでも口の中に残っている。

 それを見て、同じように顔をしかめながらアルトゥールも苦笑を漏らした。

 口の中の葉の繊維を取りだし、洗い流すように水を飲む。

 そして、アーレにもすぐに水が含まされ、迷うことなく喉に流し込む。口の中に残る味を取るには全然足りなかった。

「…みず…」

 離れた唇に思わずつぶやいた言葉に、アルトゥールは苦笑いをした。

「…ほんとにゲロマズだな…。でも、効き目は確かだ」

 そしてもう一度、アーレに水が与えられた。今度は押さえつけられず、ゆっくりと、からかうように、楽しむように。

 役目を終えて離れかけた唇が戻ってきた。与えられるものは何もないのに貪るように強く深く、アルトゥールの重みを感じながら、例え体が痺れていなくてもきっと応じてしまうだろう自分を知った。

「よく頑張った」

 少し浮かせた唇から、子供をあやすようにそう言われた。


 あれは薬なんだと察することはできた。

 それでも、アーレは涙があふれてくるのを止められなかった。

「泣くほどまずかったのか? 薬だから飲まなくてもいいとは言えない」

「ちが…、ごめん…」

「何に謝ってんだ?」

「あなたを、…不誠実な、人に、…したくなかった、のに」

 沈黙が、次の言葉を待つ。

 気まずくなるほど待っても続きが来ないことにしびれを切らせたアルトゥールが

「どういう意味だ?」

と、顔を近づけて迫ってきた。

「だ、だって、あなたには、婚約者が、いるのに」

 じっと目と目が合う。少しも悪びれず、罪悪感も見せず、むしろ、不快感を眉間に表して

「何だって?」

とさらに詰め寄ってくる。

 怖くなって、少し引き下がると、余計間合いを詰めて

「初耳だ。誰に何がいるって?」

 ゆっくりとした口調で冷静に話すが、目が怖い。

 それでもごまかすことはできない。もう一度きちんと言わなければ。

「あ、アルトゥールに、婚約者が、いるなら、…私は、分を、わきまえないと」

 そこまで言葉を運ぶと、不思議に気持ちが落ち着いてきた。

 まだ充分ではないながらも、多少は口も動くようになっている。ちゃんとアルトゥールにもわかってもらいたい。いや、わかってもらわなければいけない。

 ゆっくりと言葉を続けた。

「あなたは、こんな私にも、変わらず、優しく、してくれて、助けに来てくれた…。だからあなたが、悪くなるのは、駄目。それは、とても、悲しいこと。…今ならまだ、なかったことに、できる…」

 睨んだ目にも動じることなく、優しくなだめようとするアーレに、アルトゥールは

「はああああ…」

と重いため息をついて、俯いた。

「何でそうなるんだ…」


 しばらくうなだれていたが、意を決してくっと顔を上げると、睨むのとは違う、真剣なまなざしでアーレを見つめた。

「誓って言う。俺には決まった人はいない。だから負い目を感じる必要はない」

 揺るがない瞳の力に、嘘を言っていない、とアーレは感じた。

 わき上がる感情、…安堵と、喜びと、よぎる不安。かすかに残る落胆は自分自身へ向けられたもの。

「誰に何を吹き込まれたか知らないが、家に戻れば証明するのは簡単だ。…だが、そんな相手がいようといまいと、…俺は誠実じゃない」

 アルトゥールはゆっくりと手を伸ばし、アーレの頬に触れた。

「おまえの思いも聞かず、口づけた。助けるためだけじゃない。…そうしたかったから、した」

 触れた部分から、熱を感じる。

「でも俺は謝らない。おまえも謝るな。謝ったって許しはしない」

「私は、…あなたを、許せるわ」

 アーレの口から漏れたのは、許し。

 許されたのは、独りよがりな欲情への罪。それを許す、と言うことは、自分の、アーレへの思いも許すということ。

 許された自分は、もう不誠実ではない。

 アルトゥールは許された喜びに笑みを浮かべた。

 探るようにアーレの唇に指を伸ばす。アルトゥールの指が触れた唇に軽く、じん、とした痺れを感じる。

「俺は許さない。一人でどこかに行ってしまう奴なんか」

「ごめんなさい。…許して」

「嫌だ。許せるもんか」

 いつになく荒い口調で、それなのに笑みを浮かべ、向けられる柔らかな視線。かすかに動く指先に唇が痺れを増す。

「おまえじゃなかったら、あんなくそまずいもん、薬だろうが全部吐き捨てた。三回もだ。三回もあんなまずいもん…」

「ごめ…」

「謝るな」

 許しを請う唇を、許さない者が塞いだ。

 アーレの言葉を塞ぐ口づけから息をつき、アルトゥールは小声でアーレの耳元でささやいた。

「…謝らないでくれ」

 その一言で、アーレはアルトゥールが本当に言いたいことがようやく伝わった。

 怒っているんじゃない。この人は、謝罪など少しも求めてはいない。言葉通り「謝っても許さない」のではなく、謝って欲しくないのだ。


「ありがとう…。助けに、来て、くれて」

 やっと受け止められる言葉をもらい、アルトゥールは満足げにアーレを自分の腕の中に取り囲んだ。

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