第4話フウとの昔の約束

 体育のあとの六時間目は数学の授業だ。苦手科目で、授業を聞いているといつも眠くなってしまう。なんとか寝ないようにと思っても、ついうとうとしてしまう。

 チャイムが鳴る。半分もノートをとれなかった。三年生のこんな時期になっても、こんなふうではいい成績なんか取れるはずないよ、ほんとにバカ、と自己嫌悪になる。

 放課後は美術部に行く。友達とおしゃべりしながら、キャンパスに絵の具を塗る。絵を描くのは嫌いじゃない。 だけど、うまくはない。美術部に入ったのも、他に入りたい部活がなかっただけだ。

 絵具を溶かしながら、フウは今ごろ何をしているのかなと考える。最初、フウも美術部に入ると言ったのだが、みゆが「音楽部もあるよ」と言ったら、音楽部を選んだ。ピアノが弾きたいというのだった。みゆも音楽部にしようかとよほど思ったが、才能がないことを知っていたのであきらめた。フウは、今ごろピアノを弾いているのだろうなと思う。

「わ、いけない」

 思わず声を出す。周りが振りかえる。

「どうしたの、みゆ」

「服に、絵具、落としちゃった」

 制服のスカートに、筆から絵具が落ちて赤いしみを作った。あわてて水道のところに行って水で洗う。

 何やってるんだろうね、と泣きたくなる。最近はやることなすこと、全部、うまくいかない。自業自得だとわかっているだけに、余計、泣きたくなる。

 スカートが濡れてしまったので、それ以上、絵を描く気にもなれず絵具をしまった。終わると同時に、音楽室に行く。フウを待つために。

 ピアノの音が聞こえた。

「あ、子犬のワルツだ」と心の中で思う。なんて軽やかな音だろう。フウが弾いているに違いない。ピアノのうまい子は同級生にもたくさんいるが、フウの弾くピアノはいつも生き生きしている。

 音楽部の活動が終わっても、フウはいつでもこんなふうに少し練習して帰るのだった。

 音楽部の部員が音楽室の重い扉を開けて出てきたので、すれ違いに中に入る。近くの椅子にちょんと座る。

 フウはピアノの向こうで見えないので、フウはみゆに気づかないらしかった。

 難しいところを何度も練習している。

 フウは、もともとは、みゆに誘われてピアノを習い始めたのだった。誘ったみゆのほうは小学校五年のころに挫折してしまった。習うのをやめると言ったら、フウも一緒にやめた。みゆは、それきりピアノには触らなくなったが、フウはピアノが好きで家で弾いているらしかった。フウの家にはキーボードしかなかった。一方、みゆはまったく贅沢にも、ピアノを買ってもらっていたので、フウはみゆの家に遊びに来ると必ず弾いていた。中学に入って、音楽部に入ると、暇さえあれば練習していた。

 今年の文化祭のとき、音楽部の発表でフウのピアノを聞いたときはびっくりした。うまいのは知っていたが、あらためてステージで聞くとすばらしかった。弾いている姿もかっこよかった。フウの顔は見なれていて、友だちがイケメンだと騒いでもあまりピンとこなかったが、その時のフウは確かにかっこよかった。下級生に騒がれるわけだ、と思った。

 ステージの上でフウが大きな拍手を浴びて輝いているのを見た時、みゆは、自分の心に、うれしさと同時に小さな悲しみにも似た痛みが忍び込むのを感じた。それは(みゆはできるだけ無視するようにしていたのだが)、そのあとも、ずっと心の底に残り続けた。

 フウが難しいところを念入りにさらっているのを聞いていると、泣きたい気分になってきた。

 痛みの正体に気づいたのは、進学する高校のことを本当に考え始めたときだった。

 それまでのみゆは、高校進学については、漠然とどこでもいいと思っていた。せっかくの中学時代や高校時代を受験勉強で暗くするのはもったいない。今は、学歴なんて気にする時代じゃないし、そこそこの、のんびりした高校に入って、地元の国立大学を出れば十分だと考えていた。フウとは高校も大学も一緒に行くつもりだったし、フウもそのつもりだった。「みゆちゃんが行く高校にぼくも行くから」と何度か言われ、フウの成績ならどこの学校でも入れるから、みゆの入れる高校に一緒に通えばいいや、と単純に考えていた。それでフウと一緒の日々がずっと続くと……

 しかし、現実に、進む学校の名前を考えたとき、みゆは、それがとんでもなく子どもっぽい考え方だということに気がついた。

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