脱出
人間の連続性についてひとしきり考えてから、僕は部屋を出ることにした。時刻は五時。情報番組のキャスターが「おはようございます」と「おやすみなさい」を両方届ける時間帯であり、朝と夜の境目が混然とする刻である。
もっと早く抜け出すつもりだったのだが、多くを考えているうちに居眠りをしてしまった。物思いに耽る時、複雑怪奇なものを紐解く時、慣れないことに頭を使う時、僕らはそれまで直面したことのない睡魔と対峙することになる。
睡魔とはランプの精みたいなもので、彼らは(あれを彼らと言って差し支えないなら)まさに静謐という言葉がぴったり当てはまるような、神秘的な静謐さを携えてランプの中に潜んでいる。ところが何かの拍子に揺り起こしてしまえば、煙を吐き出し、海綿体のような体を突き出し、こちらが何かをお願いするまでは下がってくれない。どうか寝かせてくださいと、僕らはお願いしなくてはならないのだ。
ケリーが部屋を出ていった後、僕の足元にはランプが転がっていて、僕はそれを揺り起こしてしまった。しかし、彼らを揺り起こしてまで考えた人間の連続性についてに関しては、僕にはさっぱりだった。他に考えるべきことは山ほどあり、文字を追いながらまるで別のことを考えているような、そういう感じだった。なんにせよ、僕は専門家ではない。その手のことはその手のことに詳しい人間に任せるのがいい。
しかし、僕にも思うところがあるし、それを確かめたいと思っている。 そのためにも、櫛森葛流の元へ向かわなければいけない。
僕は勢い込んでベッドから飛び起き、しかしするすると音を立てずにドアに向かった。取手に手をかけ、ゆっくりと捻る。腕一本が通るくらいの隙間を開けたところで、蝶番は軋んだ音を立て始めた。音は三流のヴァイオリニストがG線を試奏したみたいに調子はずで、その音は静かな空間に嫌に反響した。
咄嗟に、僕は動けなくなった。及川誠一よ、このままではいけないぞ。早くしないと仕事の時間になってしまう。公会堂で点呼が始まってしまえば、今日脱出するのは不可能だ。
本当は今日脱出しなくてもいいのかもしれない。明日でも明後日でも、いくらでもチャンスはあると思う。しかし、そんなことを言っていたら、僕はいつまで経ってもここを出ようとしないだろう。環境に慣れ始める。やめたいと思う感情に慣れてしまう。新鮮味のない感情には意味がなく、人を行動に移させる魔力には消費期限があるものなのだ。そしてそれは今日だと僕は思っている。
この鮮烈な逃避への衝動があるうちに、僕は逃げなければならないのだ。自動人形として過ごしたあの日々、なんとかしなければいけないと思い続けてなお、『i』を使うことをやめられなかった僕の体験が、そう告げているのだ。
体が粟立つのを感じながら数秒立ち尽くし、異変がないか耳を澄ませた。
15秒だ。
15秒経ったらお前はここを出るんだ及川誠一。
ここまで一切感じてこなかった危機感は、周回遅れで僕の背中を追走している。伸びてくる指先は、僕の背中まで後少しの距離だ。
僕は15秒を数えた。もしかしたら10秒だったかもしれないし、20秒だったかもしれない。だけど今は1/100秒まで0に合わせるゲームをやっているわけではないのだ。15秒を数えたのと同時に、僕は薄く開けたドアからすり抜けるようにして部屋を出た。
大丈夫だ。何もない。僕はこのまま逃げられる。足音をなるべく立てないよう、裸足になって僕は走った。足に土をつけるなんていつぶりだろう。もしかしたら初めてかもしれない。しかし、気分は俊足自慢の小学生というわけにはいかない。開放的な気分になるには時期尚早だ。
まっすぐ走り突き当たりに行き着いた。天井の角を見るとそこには鳥が巣を作っていた。名前の分からない鳥だ。もし鳥たちが、安住の住処とてここを選んだのであれば、おそらくそれは果たされることになるだろう。バードウォッチングでも流行らない限り、ここでは人が上を向くことはない。
角を曲がれば階段がある。公会堂に通じている階段だ。ここを登れば出口はすぐそこだ。
僕は駆け出した。
床の土は高密度で冷たい。昔、霜が凍った土の上を走った時のことを思い出した。靴で踏むたびにサクサクとした感触があり、その上を走るのが楽しかった。僕は狭い地下空間を走りながら、広大な大地を走っている気分になった。干上がったあと、幾つも歳月を重ね、ようやく芽吹き出した緑の息吹を感じながら。
土はどっしりと構えられている。何かが来るのを構えている。それはずっと以前から、何かの到来を待ちかねているように。僕はその何かから逃げている。永遠の眠りについた大地はそれに気づいてくれない。代わりに冬眠していた熊が目覚め、二足歩行で萌芽を摘み取っていく。対話の余地はない。彼らは熊で、僕は人間で、それだけの関係値でしかない。
長い時間だった気がする。けれど、僕の目の前にはようやく階段の登り口が見えた。
誰かいる。
階段の前に、誰かがうずくまるようにそこにいた。尻をついて膝を立て、その間に頭を埋めている。顔は分からない。
僕は立ち止まって考えてみた。行くべきだろうかと。そして僕は行くことにした。ここの人間であるならば、彼らが僕を止めるようなことはしないだろうと踏んだのだ。それに、ここにいる全員はケリーによって薬漬けにされている。彼はラリってここにいるのかもしれない。案外無視して階段を登れる可能性もある。
僕は歩き出した。静かに歩いて、そしてその人物の前を横切った。男のようだった。それも比較的若く見える。纏った雰囲気から、17、18とあたりをつけた。
こんな人いただろうか? 新しい入居者なのかもしれない。だとしたら、彼はまだケリーによる享受を受けていない。しかし、今更引き返すなんて選択肢はない。ここまで来たのだ。僕は階段に足をかける。
「やめたほうがいいよ」と後方から声がした。若い男はまだうずくまっていた。僕は声を無視して階段を登り始めた。
「無駄なのに」若い男が言った。
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