羊と模範囚とハーメルンの笛吹き男

 ケリーの話は明け方まで続くんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。ただ彼が話を終える頃には、彼の目鼻立ちから表情まで見えるようになっていた。目が暗闇になれたのだ。


 僕は彼が話を終えて帰った後、しばらくじっとベッドで硬くなり、そして人の連続性について考えていた。


「人生は始まりから終わりまで連続している」とケリーは言ったのだ。


「たとえ人が変わってもだ」


「人が変わっても?」彼は静かにゆっくりと、僕の目を見て頷いた。彼は彼の中の、とても大事な話をしていたのだ。


「人格が変われば人が変わる。その瞬間他人に生まれ変わったように。一瞬のことなんだ。それは人をミステリアスに見せるかもしれないし、ヒステリックに見せるかもしれない。しかしどのような理由があろうとも、その変容を押し留めることはできない。サムはある瞬間からマイルズになり、そして俺は前世を無くしていった」


「無くしていった?」


「我思う故に我あり」


「?」


「自己の存在を証明するのに必要なのは、自分を思うことだ。たとえ存在を否定しようとも、疑おうとも、それを考えることそのものが、自己を確立している。しかし、自分が目の前にいたらどう思う? 俺はなぜ俺が目の前にいるんだろうと考える。自分は一体誰だと考える。すると俺はケリー・ローランで、マイルズという前世があることがあやふやになる。もう記憶も朧げなんだ。俺はだんだん、ただこの世界で生まれて育ってきた、前世の記憶を持たない人間になってきている。異世界人だと思っていた自分が、実はそうではなくなってきている。マイルズ・ブラウンはあいつに継承された。そして俺はただのケリー・ローランとして生きていかなくちゃならん」


「どうしてそんなことになったんでしょう?」


「分からない。ただ、かつての俺がやりたかったことを、今あいつが……マイルズ・ブラウンがやっているんだ。もしかしたら、マイルズ・ブラウンが持つ夢を叶えるためかもしれない」


「夢?」


「俺はまっとうに生きたかったんだ」


「まっとうな人なんていないのかもしれませんよ」と僕は言った。


「そうかもしれない。ただ、少なくともまっとうな人間は薬の売り子にはなっていないだろう」


「密売人には出会ったことがないんです」


「それが良いよ。人はさ、出会わない人間にも感謝しなくちゃいけないと思わないか? 自分に悪影響を及ぼすような人間が、私のそばにいなくてありがとう。関わってくれなくてありがとう、ってさ」


 そうかもしれないと僕は言った。


「俺はそんな奴に関わり続けた人生だった。それはこっちの世界でも変わらない。俺はこっちの世界でも同じことをやっている。ここにいる全員はもうほとんど薬漬けだよ。あの食堂にいた男もそうさ」


 僕は食堂で詰め寄ってきたエプロン姿の男を思い出した。そして一本あげるからと言った彼と、それを聞いて引いた男のやりとりも。ここで生活保護を受けているほとんどが、薬漬けになっているらしかった。弾圧のないこの場を彼らが抜け出さない理由の一つでもあるのだろう。


「調達屋にもなったんですね」


「長く居るとこういうこともできるんだよ」


「あなたは長く居すぎたんだ」


「その通りだ」彼は何度も首を縦に振り、そして長い間僕を見続けた。彼の瞳は淡いグレーを湛えていて、それはどこか懐かしさがあった。


「ここを出たいとは思わないんですか?」


「思わない」


「異世界から帰れると言ったら?」


「帰らない」とケリーは言った。その頃には彼の眉間にはシワがより、その様子は苛立たしげだった。


「君はハーメルン笛吹男にでもなったのか? 笛を吹いて、町中のネズミを誘き出して、溺死させる」僕は彼が何を言っているのか分からなかった。


「多分分からないんだろうな」と彼は言った。


「俺は別に今のままでいいんだ。快適ではないが、居心地がいい。戻ったところで、きっとこの生活をどこか懐かしく思うんだ。釈放された前科者と一緒さ。社会に馴染めず結局また犯罪を繰り返す。だんだん牢屋が自分の家だと錯覚し始める。模範囚になんかなるもんじゃない。あれは牢屋での生活に適合し過ぎている。誉めそやされるわけじゃないけど、他より自分が優秀だと思えてしまう。でも社会に出ると前科者で、誰も褒めてなんてくれない。生きづらくなって、とりあえず手っ取り早い方法で罪を犯して、従順に収監されるんだ」


「ここは刑務所じゃありませんよ」


「じゃあ牧場ランチだな。俺は外を夢見る羊だ。羊飼いの隙をついて柵を飛び出す。ずんずんずんずん走っていって、羊飼いと追いかけっこになる。羊飼いは追いついて俺を誘導し、また柵に閉じ込める。そして羊は、外なんて大したことなかったと、柵の中の日常に戻るんだ」


 それから彼は黙って、僕も何も言わなかった。彼は腰掛けていたベッドから立ち上がり、僕を見下ろした。


「余計なことばかり喋ってしまった。ごめんよ。俺は戻る。君とはもう会うことはないんだろうな。さよならだ」

 

 彼は単調な足取りで歩いていった。異世界から帰れるという仄めかしは、彼の足取りを変えるには至らなかった。彼は外に興味をなくしてしまった羊であり、模範囚であることに誇りをもった囚人なのだ。そして彼に言わせれば、僕はハーメルンの笛吹き男らしい。彼はドアノブに手をかけて一度捻ったが、かけた手を離して僕の方を向いた。


「君は気をつけた方がいい」


「気をつける?」


「君はマイルズ・ブラウンに少し似ているから」どちらの意味でもね、と彼は付け足した。


「君はあまりに環境に適合しようとしすぎるところがある。人の想いを吸収しすぎるところがある。つまり、ケリー・ローランにも、サムエル・スミスにもなり得るということさ。そしてマイルズ・ブラウンにも」そして「多分君は分からないんだろうな」と言った。それから彼はまたドアに手をかけた。


「僕の方からも、最後に一つ良いですか?」


「なんだろう?」


「どうして色々教えてくれたんですか?」

 

 彼は実に色々考えているように見えたが、結局一言に落ち着いた。


「俺は徹頭徹尾、足の先まで模範囚なんだよ」そう言って、彼は欠けた足の先を戸口の外へやった。彼は部屋を出ていった。

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