被害者その2

 教育係の男はパンを咀嚼しながらじっと僕を見た。それから他の奴隷が食堂から引き上げるまでの間、時間をかけて食事をとった。彼は食事の時間が1番の楽しみとでもいうように、最後にスープの残りをパンに吸わせて口に頬張り、食事を終えた。彼は金勘定でもするような仕草でパン屑を落とし、僕に言った。


「君は異世界人だ」


「はい」


「俺は少し違う」僕は何も言わず、ただじっと話の続きを待った。でも男は首を振った。


「ここでは何も言えない。それにそろそろ時間だ」


 鶏肉らしきものは残した。近くにあったバケツに捨てようと覗き込むと、生き物の生首と半端に肉を刮げた骨が入っていた。残飯を捨て、食器を片付けて食堂を後にしようとすると、後ろからがなり声の男に呼び止められた。


「おい! 俺のメシが食えないって!」


 男のエプロンには新しい血と古い血が一緒にシミを作っている。まるで多様な赤の色彩を実験しているみたいだった。眉毛は磁石についた鉄みたいに剛毛だが、その割に他の体毛は薄かった。頭も腕も脛も、彼には毛がなかった。


「いや……申し訳ないとは思うんだけど……」


「俺のメシが食えないって!」男は僕に詰め寄ってきて「俺のメシが食えないって!」とまた繰り返した。


 男の体臭の酷さも相まって、ネジを巻くと「俺のメシが食えないって!」と叫ぶ人形がドブの中から何度もそう叫んでいるみたいだった。きっと欠陥品か何かだったのだ。


 捨てられた人形の臭いにあてられた僕の前に、教育係の男が腕を差し込み、エプロンをつけた男の肩に手をやった。


「すまない。彼は新人なんだ。許しくてやってくれ」


「俺のメシが食えないって!」


「……あとで一本あげるから」その言葉で男は黙り込み、退散した。そして教育係の男はため息をついた。


「やれやれだよ。まるで餌付けを覚えた鹿だな」


「……今のは?」


「また後で」そう言って彼は一足先に自室へと戻っていった。


 僕も自分の部屋に戻り、硬くて痛いブラシで歯を磨き、水で体を洗った。部屋には蛇口があり、取っ手を捻ると水が出る。しかしお湯は出ない。給湯器なんてものはなく、ここではお湯を沸かす方法も火を起こす方法もなかった。


 全身鳥肌になったのを感じると、バケツに入れられた死骸が目に浮かび、睾丸がキュッとした。急いで服を着直し、毛布に包まり、ベッドに横になった。すぐに体が痛くなり、何度も体勢を変えなければならない。ヴァネッサの所とは大違いだと思った。


 それから僕はみんなのことを考えてみた。櫛森葛流のことや橘さんのことやヴァネッサさんのこと、マイルズのこと、誰も彼もここ1ヶ月以内に出会った人達ばかりだ。彼らは親しさを感じてくれているだろうか。彼らの親しさは僕への心配に直結するだろうか。それとこれとは別なのか。


 僕はあまり危機感を感じてはいなかった。ここは警備もざるだし、逃げ出すのは難しくなさそうだ。なんせ彼らはここでの生活に安心しきっている。彼らは負債と一緒に心配性の種も抱え込んでしまったのだ。そして必要ない保険にまで入ってしまうタイプの人間になってしまった。彼らは自動車に乗らないのに自動車保険に入るし、仕事があるのに失業手当を貰おうと、ハローワークに駆け込みさえする。


「失業手当の手続きをお願いします」

「あなたは就業中じゃありませんか」

「クビになるかもしれないじゃないか!」



 目が覚めた時、僕を覗き込むように男が立っていた。光のない部屋の中で、ぬっとしたシルエットと漠然としたディテールだけが僕の目に映った。唐変木な枯れ尾花みたいだったし、奇妙に生えた親知らずみたいで、なんとも肝を冷やした。


「何もしてないよ」と男の声をした影が言った。その声は教育係のあの男の声をしていた。精神科医が録音したうつ病患者みたいな声だ。そして神経症患者でもある。


「そうじゃなくて」と起き抜けに僕が言うと、男は手に持った何かをちらつかせた。多分それは鍵だった。


「長くいるとこういうこともできるんだよ」


「長く居すぎたんじゃないですか」


「そうかもしれない」と彼は言った。


 それからお互い何も言わなかった。彼は沈黙を行使して、僕は不干渉を決め込んだ。発展の見込みがない相席みたいだった。彼は手に持った鍵をポッケにしまい、ベッドの端にお尻の端を乗せて、浅く腰掛けた。投げ出した彼の足は、水族館のチンアナゴのようだった。


「君はここを出ていくんだろうね」沈黙を破ったのは彼の方からだった。


「ええ」


 それから少し間が空いた。


「俺の話を聞いてもらっていいか」


「はなし?」


「君の質問の答えでもある」


 それから彼は話し始めた。



・・・・・・



 晴れた土曜の朝だった。俺は休暇を使ってハリウッドまで乗馬をしに行っただ。ランドローバーに鞍やゼッケン、ボア、ブーツを積んで、ハイウェイを走った。


 朝も早かったせいか、渋滞もなかったし、それなりにスピードも出てた。75マイルくらいは出してたんじゃないかな。


 横目で見える窓から、ヤシの木やガソリンスタンド、電柱、高層ビルの照り光りが流線になっていくのを覚えている。とにかく、俺は気持ちよくハイウェイを走っていたんだ。


 そこで一台のトラックが前を走るのを見た。


 俺はトラックを追い越そうとしてウィンカーを出した。そしたらさ、トラックは急ブレーキを踏んだんだ。俺もブレーキをかけた。ぎゅっと目を瞑って。でも全然間に合わなかった。そして気づいたらこの世界にいた。



・・・・・・



「とりも直さず、俺は異世界転移をした」


「他の異世界転移と何が違うんですか?」


「違い?」


「異世界人だと訊いた時に、『少し違う』って言ってたじゃないですか」


「話はここからなんだ」と彼は言った。


「俺には弟分みたいなのがいるんだ。そいつと一緒に商会を開いていた。結果は分かるだろ。まあ、俺たちは失敗した。


それから、俺たちは国を出て流れをしていた。生活保護なんて御免だったし、誰かの世話になるのも嫌だった。俺は自分の面倒を自分で見れる奴になりたかったんだ。好きなことをやって好きに生きていく。その責任もとっていく。自分のケツは自分で拭ける、そういう生き方を望んだ。


でもそれも限界だった。ゴミを漁って、他人ひとの残飯を食って、野薔薇に脱糞して、惨めになって盗みをした。そしたら今度は嫌気がさした。半年くらいそんな暮らしをして、俺たちはこの国に戻ってきた。体が腐ってきて、足の指は壊死した」


 彼は僕に左足を向けた。夜目に慣れてきて、その輪郭を捉えることができるようになっていた。彼の左足の親指は欠落していた。


「限界だったんだ」と彼は言った。


「あいつも、太っちょだったのがすっかり痩せこけた。まあそれでも太ってたんだけど。あの逃避にはなんの成果も意味もなかった。要らない地獄だった。でも、そう思ってたのは俺だけだった。あいつは全てを忘れた」


「忘れた?」彼は頷いた。


「弟の名前はサムエル・スミス。でもいつからか、あいつは自分をマイルズだと名乗るようになった」


 僕はちょっとびっくりした。マイルズ? 


「俺はケリー・ローラン。現実世界ではマイルズ・ブラウンって名前だった」と彼は言った。


「マイルズは俺なんだ」


 これはややこしいことになってきたと、僕は思った。

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