無差別転移事件/被害者その1
三年前、世界中で未曾有の無差別転移事件が起こった。
「地球だけの話じゃない。もっと大きな括りの話だ」と櫛森は言った。異界、魔界、冥界、あらゆる世界で転移が発生した。しかし、その規模の大きさに伴い、問題は矮小化されていた。
「あまりに規模が大きすぎた。数多ある世界で一人二人が転移したとしても、行方不明事件として扱われるくらいだ」
転移事件に関わった者の数は計り知れず、世界の数も計り知れない。地球からの被害は最も多かったが、それでも8人だけだった。そんな中で、問題を正しく認知できた者はほとんどいなかった。事件を把握するには、二通りしかない。全世界的な目線を持つこと、そして被害者になること。
「そして僕が調査員として派遣されたんだ」と櫛森が言った。「マイルズは、僕が調査する過程で見つけた、貴重な被害者だ」
昼日中の白日の光が、木枠をはめた窓から差し込み、マイルズの印象的なグレーの瞳が淡く輝いた。彼は手を合わせて指を絡め、過去の夢見心地を想起する。
・・・・・・
晴れた土曜の朝でした。私は休暇を使ってハリウッドまで乗馬をしに行ったんです。ランドローバーに鞍やゼッケン、ボア、ブーツを積んで、ハイウェイを走っていました。
混雑はしていませんでした。まだ朝も早かったですから。ヤシの木やガソリンスタンド、電柱、高層ビルの照り光る窓。私の最後の光景です。
前を走るトラックを追い越そうとウィンカーを出した時、トラックは急ブレーキしました。私はぎゅっと目を瞑ってブレーキをかけると、気づいた時にはこの世界に来ていました。
死んだのかと思いましたが、それすらもわかりませんでした。私は私のままの姿でしたし、大きなショックを体に受けたようにも感じませんでした。少し呼吸が荒かったくらいでしょうか。それも次第に落ち着いていきました。私はうまく状況を飲み込めませんでしたが、一つ確実にわかることがあります。
こんな世界に私はいなかった。それは確かでした。しかし同時に、ここは私の世界だと思いました。
「どういうことですか?」とヴァネッサが訊いた。
マイルズは首を振って「私にもよく分からないんです」と言った。
「なぜだかは分かりませんが、私にはアメリカで過ごした記憶と、この異世界で過ごした記憶があるんです。どちらの世界にも私の両親がいて、家があり、そしてもっと大事なものがあるのだと、そう思うんです」
物心ついた子どものように、マイルズは世界に定着していった。
その一瞬に自分が生まれてきたような、電撃的な感覚を今でも覚えている。そして同時に、自分が奴隷であることも分かっていた。しかしなぜ自分が奴隷だったのかは覚えていなかった。それ以前の記憶は赤ん坊の記憶のようなもので、記憶は断続する雲に覆われ、時たま顔を出しては引っ込めた。
マイルズが覚えていることと言えば、自分の両親と、自分が今奴隷であること、自分が経営者であること、そして共同経営者がいることだった。
「初耳です」とヴァネッサが言った。
「私も初めて言いました」
共同経営者はマイルズよりも年上で、兄のように慕っていた。彼は商会を作るのが夢で、マイルズは彼の夢を手伝うために共同経営者になった。
「一緒にやろう」と言われたマイルズは獅子奮迅の思いだった。幼い頃から兄のように慕う彼から誘いを受け、彼の力になりたかったことは、マイルズが持つこの世界の記憶の一つである。
しかし、彼らは失敗した。
そのことについて、マイルズはほとんど覚えていなかった。奴隷としての記憶も多くはなかった。
・・・・・・
「なあケリー」マイルズが呼びかけると、共同経営者の男は振り返った。手にはハンマーが握られ、釘は樫材に5センチほど食い込んだ状態で
「俺たち、どれくらいここにいるかな」
共同経営者の男は振り返るのに捻った体を元に戻し、また釘を打ち始めた。背中には発汗の跡が大きなシミを作っている。こんな日にはビールが飲みたいとマイルズは思った。
「もう半年くらいじゃないかな」と共同経営者の男が言った。
「いつまでこんな生活を続けるんだよ」
「いつまで?」ケリーはまた体を捻り、マイルズの方を向いた。
「そろそろさ、考えたほうがいいんじゃないかな」
「何を?」
「だから逃げ──」
「そろそろ働かないと、どやされるぞ」
ケリーは大工仕事に戻った。マイルズは斧を持ち、乱雑された大きな木材をコンパクトにしていった。
力仕事のおかげで、華奢だったケリーの体ががっしりしていくのをマイルズは感じていた。太っちょのマイルズは「もっと食べなくちゃ」なんて話をケリーによくしていたのだが、実際良くなっていくケリーの体つきを見て、マイルズは複雑な胸中を覚えた。
「なあケリー」今度は呼びかけに応じなかった。
仕事を終えると、彼らはまっすぐ収容所に戻り、食事をとった。食堂では他の奴隷たちから離れたところで、蒸した芋を突いていた。この時期は芋の収穫が良かったのか、形の悪い芋に混じって質の良いものも混じっていたのを、マイルズは覚えている。
「なあケリー」とマイルズは小声で呼びかけた。
「昼間の話だけどさ、やっぱりここに居続けるのはダメだ。また成功するのにここでの環境に慣れるのは良くないよ」
ケリーは構わず芋を食べ、ベタついた米を口に運んだ。マイルズはさらにケリーに顔を近づけ、話を続けた。
「ここは警備もそんなにつけていない。昼間なら逃げられるチャンスはいくらでもある。ここでの生活は難しくなるかもしれないけれど、他の国でも商売はできる。俺たち二人でならまたやり直せるよ」
共同経営者の男は首を振った。
「無理だよ」
「そんなことはない。それに、永遠この国に帰れないなんてことはない。時間が経てば俺たちの顔なんてみんな忘れてるよ。そんなもんさ。案外あっけないんだ。絶対大丈夫さ」
「絶対?」ケリーは厳しい目をマイルズにぶつけた。
「絶対に成功すると言ってお前が持ってきた仕事を信じた結果がこれなんだぞ」
マイルズはそれがどのような種類の仕事だったのか、何がダメで失敗したのか、細かいところは思い出せず仕舞いだった。マイルズは下唇を噛み、目を下に移した。するとケリーは手を振って「すまん」と言った。
「仕事を選ぶのは俺の仕事だった。俺が抜かったせいだ。お前は良かれと思ってしてくれたんだ。分かってるし、もう終わった話だ。すまなかった」
「終わった話? 違うよ。まだ終わってない。またやり直せばいいじゃないか。俺たちはいくらだって逃げられる。チャンスなんていくらでも転がっている。やれないことはないさ。終わらせるにはまだ早いよ。成功するまで失敗しても、成功したらそれで終いさ。失敗なんてチャラにできるんだ」
ケリーは持っていたスプーンを静かに置いた。それから息を吐いて話し始める。彼の言動は全部が緩慢で、緩みっぱなしの調整弁みたいだった。
「なあマイルズ、逃げ出す必要がどこにある」とケリーは言った。
「……どういうことだろう」
「ここにはさ、贅沢はできないけど必要最低限のものが揃っている。必要最低限のものさ。そこに文化的価値はないし、娯楽もない。でも生活ができる。でもさ、娯楽がないからなんなんだ。好きなことができないからなんなんだ。俺はさ、怖いよ。マイルズ。帳面を見て頭を抱えるのも、不安を抱えながら仕事をするのも、結果が出ずにやっていることが否定される気分を味わうことも、何もかもが怖いよ」
「俺がついてるよ。それにその先には輝かしい日々が待っているんだ。夢なんだろ。自分の商会を持つことが」
他の奴隷たちは食事を終えて続々を部屋に引き上げていった。食堂を使える時間も限られている。マイルズはあまり食事に手をつけていなかった。ここでの生活でマイルズは食欲が減退した。それに比べてケリーはよく食べるようになった。いつも腹を空かせているように見える。
「錬金術師の話を知っているか」とケリーは言った。マイルズは知らないと答えた。
「錬金術師が何を研究しているのかは知っているか?」
「非貴金属を貴金属に錬成する研究だね」ケリーは頷いた。
「その最たるものが金の錬成さ」
「それがどうしたんだよ」
「それを成功させた錬金術師がいるんだ」
マイルズは少し間を置いた。
「すごい。その錬金術師は大金持ちじゃないか」
「ところが、金の錬成は国に禁止されたんだ」
「どうして?」
「大金持ちになれるからさ」
「あんまりな話だ」
「もちろん他に理由はあるよ。インフレが起きるし、金の市場も破綻する。でもさ、錬金術師は金の錬成を夢見て、それを叶えた。でも、実際それが叶った時、受け入れられるとは限らない」
「どういうことだよ」マイルズはケリーが何を伝えようとしているのかがよく分からなかった。
「たとえ成功しても、俺たちが思っているような成功とは遠いものかもしれない」
「そんなの分からないじゃないか。成功してみなくちゃ分からない。実際想像以上の結果が待っているかもしれない」
「でも成功して何が得られるのかも分からないのに、俺は不安で眠れない日々を過ごして、頭を悩ませ続けるのか」
ケリーは首を振った。
「無理だ。俺にはとてもできない」
二人の話は食堂を追い出されて終わった。
翌朝、仕事へ向かう奴隷の中にマイルズの姿はなかった。
・・・・・・
「私の一生の後悔です」とマイルズは言った。
「兄のように慕う彼を、見捨ててしまった。ケリーを奴隷として私が買おうかとも思いました。けれどそんなことはしたくなかった。私が買ってしまえば、ケリーは本当に奴隷になってしまいます。奴隷同然とはいえ、本当に奴隷なわけではない。
私は想像してみました。ケリーを購入した時のことを。彼はお礼を言ってくれるでしょう。そして私が商人として生活できていることを褒めてもくれると思います。けれど、彼にはいつも申し訳なさそうな笑顔がある。惨めな自分を私に隠そうとする。そんな彼の姿なんて見たくない。ケリーには、自分の力であそこから脱出して欲しいんです」
マイルズは実の兄同然の男が奴隷として働く姿を、連日必ず一度は目に入れていた。奴隷は町の住人により監視されている。そういったことを、住人たちは娯楽とでも言うように行なっていた。プールの監視員のように、日陰から日向にいる彼らに目を光らせるのだ。
マイルズは胸を痛めながら、罪滅ぼしのように毎日続けている。目を背けず、自分も苦しまなければいけないと思っていた。
「まあ、大丈夫じゃないかな」と櫛森は言った。
「今あそこには、楽して贅沢したい男が収容されているんだ」
・・・・・・
「ところで、あなたは異世界人ですね」と僕は言った。
教育係みたいな男は面白くなさそうな顔をして僕を見た。
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