座礁した島と霧中で焚き火をする男

階段を中くらいまで登ると、足音が聞こえてきた。僕のものではない足音。誰かが階段を降りている。音は一定のリズムと音階を保ち、ずっと同じ音量でなり続けていた。


 コツコツコツ。

 コツコツコツ。

 コツコツコツ。


 僕は後ろに引き返すことも考えたが、そうはしなかった。半ばヤケクソになっていた感は否めないが、後ろからの忠告を無視した。


 前方からは足音が聞こえてくる。

 後方からは警告が聞こえてくる。


 やがてそれらは反響し合い、混ざり合い、坩堝になって僕を惑わす。スルトとは紐解かれていき、何十にも絡まっていた音がふたつに分たれた。


 左からは足音が聞こえてくる。

 右からは警告が聞こえてくる。


 僕はそれらも無視して、二つの音に挟まれながらあ歩き続けた。

 僕は自分が歩くべき道を歩いた。

 そうするべきだと思ったのだ。


 音が向きを変え始めた。もしかしたら僕が変わっているのかもしれない。前からも後ろからも、左右ともに音が鳴り出した。次第に音量が増していき、最後には断末魔のような響きを孕み始める。


 そして今度は音がなくなっていった。一文字ずつ、音は生え替わりの時期を迎えた乳歯のように、一つずつ欠けていった。


 そしてすべての音が止んだ。


 それでも僕は相変わらず階段をぐるぐる上がっていた。


 ビル何階分上がっただろう?


 八階くらいまでは上がったかもしれない。


 僕は疲れ知らずのままで、いつまでだってこうやって階段を上がっていけそうだった。


 さあ薄明が見える。


 淡く薄く。満遍的に暗い光をまぶされている。


 僕は階段を上がりきる。


 眩しくはない。


 だから自分の置かれた環境がよくわかる。



・・・・・・



「どこだ?」


 日が浮かばない朝の時間があった。そこは霧がかっていて、潮騒が聞こえた。でも海は見えなかったし、潮の匂いもなかった。


 二匹の鳥が高い所を旋回していた。


 首がもたげそうになるくらい高い所。高層ビルや電波塔を見上げているみたいにしなければ、鳥が飛んでいることにも気づかないくらいの所だ。鳥たちは一羽が北にいればもう一匹は南に。東にいればもう一羽は西に。そういう風に、絶対に交わらない長針と短針みたいに、僕の頭上を旋回していた。それはヘイローのようだった。


 辺りにはほとんど何も見えない。というより何もない。しかし、北東の方角に小さな島のようなものがあるのがわかった。しかしそれは、海に浮かんでいるというよりも、座礁しているみたいだった。座礁した島。でもやっぱり海は見えなかった。


 僕は平坦になった海岸の岩みたいな地面を歩きながら、その島の方に向かった。頭上を飛ぶ鳥たちは、僕が歩くのと同じ速度で、旋回しながらついてきた。


 島が近づいていくと、滲んだ炎が見えた。霧の中で揺らめく赤い炎。それは雲に滲んだ月の光や、夜霧に浮かぶ船灯にも見えた。僕は夏の虫になって、揺れる炎に近づいていく。


 そこには一人の男がいた。革のコートを着て、土星のネックレスをつけた男が、霧の中で焚き火をしていた。


 まるで絵画のようだった。


『座礁した島と霧中で焚き火をする男』


 暗礁に乗り上げた島、天を飛ぶ二羽の鳥、潮騒の音、晴れない霧、幻想的な滲む炎、土星のネックレス。


 男の背中越しにはカーキの汚れた大きなリュックサックがある。サンドバックでも入っていそうなくらい、大きなリュックサックだ。足元のアイリッシュ・セッターも汚れていた。


 男は僕に気づいているのだろう。それでも彼はこちらを見ることはしなかった。その代わりとでも言うように、僕に話し始める。


「霧と霞の違いを知ってるか?」

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