奴隷になった日

 奴隷の収容所に放り込まれると、僕は制服と、ごわごわした毛布が一枚とタオルが三枚、便器、テーブル、歯ブラシ、燻んだガラスコップ、木製のベッドを与えられた。


 収容所は監獄よりかはいくらかましという程度のものだ。公会堂の地下に設けられ、日の光は届かない。コンクリ塀は地下の冷気を吸い取り、僕らの体を腐らず傷まず保存しようとしているみたいだった。


「この寒さに最初はやられるんだ」と、新人研修みたいな役割をする中年の男が言った。


「君は運が良かったよ。冬になると最悪なんだ。震えは止まらないから歯が鳴る。それで歯を噛み締めると歯茎が痛くなる。ここのパンは硬いからしばらくは食事が苦痛になる。じっとしているのも辛い。何をしていても辛い」


 僕はまず奴隷の制服に着替えた。荒い布で頸椎のあたりがチクチクする。それからここでのルールを聞かされた。


「外出は許されない。外に出る時は働く時だけで昼は仕事場で食べる。朝に食堂に寄って、その日の弁当を受け取る。 中身? パンと果物が一つ。それから水さ。ほとんで水で腹を膨らませるんだ。仕事が終わったらそのまままっすぐ帰ってくる。寄り道? 無理だよ。僕らは常に見張られてるんだ。誰から? 街のみんなから。そのまま食堂で夜ご飯を食べて、体を拭いて寝るだけ」


 その日は共有スペースを紹介された。といっても食堂とトイレしかなかった。それから部屋に戻った。


「明日は6時にまた来るから」


 僕は硬いベッドに横になった。ストリングがなく体のあちこちが痛くなりそうだ。そして夜は寒かった。夜風が毛布を通り抜け、体にまとわりつく。体の端の方、特に足先はひどく寒さが伝わり、何度も擦り合わせることになった。それでも良くはならない。固くなったガムを何度噛んでも柔らかくならないのと一緒で、柔らかくするにはもっと別の方法か、それとも新調する必要がある。


 翌日、眠れなかった目を瞬かせ、ドアにある郵便受けに何かが入れられた音を聞いてベッドを出た。


 足にはまだ感覚が残っていたが、膝が少し軋み、腰が痛くなっていた。耳は少ししんとしている。軟体生物が耳の奥で息をしているみたいに。耳の奥にはスイッチがあって、そのスイッチを押した時、この生物は何もなかったように何処かに吸い込まれる。僕はスイッチを押そうとして、そして何をしたかったか忘れた。


 ……何かが届いたんだ。


 郵便受けにはビラが入っていた。日焼けした紙はもともと大きな一枚だったのか、上辺と右側の端が雑に破れた後があった。


 そこには仕事の内容と時刻と場所が書かれていた。きっと仕事を斡旋されているのだ。そして断ることはできそうにない。選ぶこともできないのだろう。この一枚しか配られなかったのだから。


 ノックの音がしてドアを開けると、昨日の男がいた。


「行こうか」


 僕はクッションの効かない靴を履いて食堂に向かい、パンと果物が一つ、それと水が入ったボトルを受け取った。


 水が容れられたボトルは配られたグラスと一緒の材質だった。泥がついているみたいにくすんでいる。腹を下さないか心配になる見た目をしていた。


 それから上階の方の公会堂に向かった。


「これから他の奴隷にも会うし、君の紹介もするけど、名前は言わない方がいいよ」


「どうしてですか?」


「誰も言わないからさ」


「どうして?」


「言いたくないんだよ」


「あなたも?」


「そうだね」確かに僕は、僕の世話を焼いてくれる彼の名前も知らなかった。


 公会堂の方に行くと、僕以外の奴隷がいた。僕の世話を焼いてくる男は僕を新入りだと紹介し、全員小さく首を突き出した。まるで駅前に集められた派遣社員たちみたいだと思った。


 一度派遣で仕事をしたことがある。駅前に集合し、どこどこの人たちですかと聞き、それからまとまって移動し、現地についても僕らはまとまって行動させられる。食事も一緒で黙々と、移動も隊列を組まされ、ぎこちない雰囲気がダラダラと流れている。


 そしてここでの奴隷も似たような扱いだった。全員で仕事場に行き、黙って仕事をして、一緒に食べたくもないのにまとまって食事をし、そして全員で寄り道せず帰る。僕はあの頃を思い出して嫌になった。


 奴隷は帰った足でそのまま夕食を取る。食事は栄養も味もない病院食みたいだった。ゴムみたいに硬いパンと、すっかり冷めてしまったスープ(これを冷製スープと言い張るなら何も間違えてはいない)と、油でギトギトの鶏肉のソテー(本当に鶏肉かどうかは分からない)が二切れ。


「こっちを先に食べた方がいい」と隣に座る世話役の男は鶏肉のソテーを指して言った。

「後で後悔するぞ」


 一口食べてすぐにわかった。油がきつすぎていつまでも口の中に残るのだ。パンとスープで口の中を少しでもマシにする必要がある。そうやって無理やり肉の全部を喉に押しやって、腹に収めた。


 ギトギトになった口にパンを入れるが、パンは硬すぎてなかなか咀嚼できない。僕がずっと噛んでいると、隣の男がスープを指した。スープを飲むと硬さは少し和らいだ。


「こうやってちょっとずつ食べていくんだよ」


「ひどいものですね」


「でも、僕らは奴隷だから」


「でも正式には奴隷ではないんですよね。生活保護なんだから、保護されているんですよね?」


「借金を帳消しにしてくれて、衣食住を与えられて、仕事も用意してもらえる。国は何も嘘をついていない。借金は僕らは購入する代金で、ひどいが衣食住も与えられた。仕事もある」


「騙されたんですか?」


「まさか、ここにいる多くは経営者だったんだ。自分の頭で考えて、お金を作り出していた。それくらいのことは多分みんなわかっていたよ」


 ここには失敗した人間が集められている。間違っても、間違いを犯した人間たちの集まりではなかった。


「でも、僕らは犯罪者予備軍だとされている」


「犯罪者予備軍?」


「経済は回っているというけれど、全体で回っているわけじゃない。金持ちがいるコロニーと、貧乏人がいるコロニーは違う。金持ちは金持ちたちの中で金が回っているし、貧乏人は貧乏人で金を回している。僕たち経営者はね、貧乏人のコロニーから権力者たちのコロニーに行こうとした人間なんだ。彼らから言わせれば、自分たちの庭を荒らされるようなものだろう」


「自分たちの金だから取るなってことですか?」彼は頷いた。


「見返してやりたいとは思わないんですか?」


「見返す?」


「ここを出て、また何か商売を始めて、貧乏人のコロニーから権力者たちがいるコロニーに行こうとは思わないんですか?」


「思わない。という思えない」


「どうして?」


「精も根も尽き果てた、と言えばいいのかな。正直、しんどかったんだ。経営者も楽じゃない。でも、今の生活は楽だ。質は最悪だけど、何もかもを与えられる。不自由しないんだ。雨風を凌げて、餓死せず、働くところがある。君はさ、路頭を彷徨ったことはあるかい?」


 僕はないと答えた。


「最悪だよ。不安だし体は休まらないし、死ぬかもしれない。チンピラに襲われたり、野犬に追いかけられたり、そこで寝るなと守衛や露店の護衛に追っ払われる。とにかく居場所がないんだ。あの頃には戻りたくないんだ。すごく怖い。外が怖い。ここにいるみんな、そういう経験をしているんじゃないかな」


 ここにいる多くの人は、恐怖を裏返しにした安心感を身につけていた。そして何も持とうとはしなかった。自由を持たず、金を持たず、そして不満を持たなかった。彼らが持っているものといえば、仕事と硬いベッドとパンと、奴隷の証とも言える制服くらいのものだった。


 彼らは奴隷といえ身なりは整えていた。削った石で顔を傷つけながら髭を剃り、寝癖を直し、その日来た服は必ず洗った。そして静かであった。


 しかし彼らのそれは、落ち着き払い、ジタバタせず、目を光らせ時を待つ、そんなものとも違う。彼らは単に諦めていた。満足はいかずとも不自由はしなかったし、何よりただその場にいるだけで仕事にありつけることに、彼らは安堵していた。


 冷え切ったスープを飲み干し、逃げ出さなくてはいけないと思った。


 すでに奴隷の僕ではあったが、彼らのようにはなりたくなかった。冷え切ったスープを飲み干し、一刻も早く逃げ出さなくてはいけないと、そう思った。

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