藺草と事件の匂い

 櫛森とマイルズは暗い廊下を歩いていた。マイルズかしてみればどこに繋がっているのかも、どこに向かっているのかも分からない状況だろう。彷徨ってはいるが道が一つだからそこを歩くしかないといった感じで。


 気がつくと10畳ほどの和室に足を踏み入れていた。家具も装飾もない、藺草いぐさの匂いだけがするだだっ広い和室であった。そのまま彼の後ろを歩いていった。屋敷だと彼は悟った。ここは彼が住む屋敷なのだ。


 彼らが居間の方に行くと、応接間の方に二人の男がいた。


 どちらもスーツを着込んでいて、少しくたびれているように見えた。スーツも人の方も。スーツはシワができているし、ネクタイに至ってはクリーニングに出すことすら知らないみたいだ。靴下には少量の毛玉が見えていた。


 それくらいならまるで彼らは問題にしていなかった。毛玉を数えるよりも、眉間の線を数える方が得意そうな顔をしていた。彼らは耳の毛細血管だって数えるし、指の関節の角度だってミリ単位で当てられる。そういう鋭さを誇りするタイプに見えた。そんな顔をしていた。


 櫛森は刑事なのだろうと当たりをつけた。案の定彼らは刑事だった。


「夜分に申し訳ございません」二人は座りながら頭を下げた。足は正座で組まれている。


「迷われませんでしたか?」櫛森は彼らの対面に座り。マイルズも隣に座った。


「ええ、何度か通り過ぎてしまいましたが、何とか」男は角ばった顔をしていて、頭は角刈りにし、G-SHOCKを身につけ隣に若い男を連れていた。


 若い男の方はもう少し身なりを良くしていて、もみあげを刈り上げ、前髪は真ん中で分けていた。若い男はボールペンを持ってメモを取る体制をとっている。彼の持つボールペンは学校の卒業記念とかでもらえるような代物に見えた。きっと革のペン入れに大事にしまっているのだ。


「それで、御用向きは?」


「及川誠一さんをご存知でしょうか?」角ばった顔した男が話を進めていく。


「ええ」


「どのようなご関係で?」


「関係ですか……。本人はなんと?」


「……お友達と」


「違いますね」


「違いますか」


「ええ。そうですね……知人くらいですよ」若い刑事は少し堪えた表情をした。


「以前、及川さんをお助けになられたようで」


「まあ、結果的にですが」


「ご勇敢だったそうで」


「はあ」


 刑事は千鶴が出したのであろうお茶を啜った。若い刑事は正座の態勢が辛いのか、足をモゾモゾとさせていた。もしくは用をたしたいか。


「足」櫛森が言った。「崩してもらって構いませんよ」


 刑事は二人とも足を崩して胡座をかいた。失礼しますとありがとうございますが交差した。隣のマイルズは黙って足を崩した。


「それで、何の御用なのかはお聞かせいただけるんでしょうね」


「まあ、用というほどではないのです」と刑事は言った。


「及川さん宅が強盗に遭ったというのはご存知でしょうか?」


「聞いてはいます」


「その際に、及川さん自身も誘拐されたのだという話を聞き、その際にあなたの話も出たんです」


「……なるほど」


「なので、櫛森さんからも当時の状況をお聞かせいただきたいのです」


「なるほど」千鶴が櫛森とマイルズのもとにお茶を持ってきた。櫛森がそれに口をつけている間、刑事二人は黙ってそれを見ていた。


「正直覚えていないんですよ」と櫛森は言った。


「覚えていない?」


「僕は必死だったんですよ。なんせ誘拐されている男を見つけたんです。体が勝手に動いてしまったんですよ」


「何も覚えていらっしゃらないと?」


「そうですね」


「本当ですか?」と若い男が割って入ってきた。


「あなたの態度からは、とても忘れているようには見えません」


「それは、君にはそう見えないというだけじゃないのかな」


「誰が見ても明らかでしょう」


「君は悲惨な感情には涙がつきものだと思っているタイプだね。笑っている人間の悲しみに気づけないタイプの人間でもある」


「何の話ですか?」


「君のものの見方の話だよ」


「今はそんな話はしていません」


「何の話だっけ。あいにく、忘れっぽいんだ」


 若い刑事は顔を赤くしたが、角刈りの刑事が止めた。


「その辺で、櫛森さん。それ以上は私のものの見方も変わってしまいますよ」


「よしておこう」


 このやりとりを、マイルズはハラハラしながら見ていた。櫛森はなぜ挑発するような素振りを見せるのだろうと、彼には謎だった。もっとスマートな方法を、彼なら取ることができるはずなのにと。


「櫛森さんは、捜査には非協力的なのでしょう。警察はお嫌いですか?」


「刑事さん。僕は警察が嫌いなわけではないよ。警察にも知り合いがいるし、公僕としてわざわざ嫌われ役を買ってくれている。民衆は頼るだけ頼って最後には嫌うんだ。たまったもんじゃないだろう。だから、協力はしてあげたいとは思っているんですよ。あるものをあると言いたいし、ないことをないと言いたい。でもね、あるかないかも分からないことをあるとも言えないし、ないとも言えないんですよ。僕としても言いたくないし、それで混乱させたくない」


「なるほど」


 しばらくの沈黙が訪れた。


「櫛森さん。芝浦埠頭で17体の水死体が発見されたのはご存知ですか?」


「いえ」


「今日テレビや新聞は?」


「あいにく用事があって、どちらも」


「かなり話題でメディアも殺到しているような状態です」


「はあ」


「検死の結果ですが、死後一週間前後は経っているようなんです。男は全員黒ずくめの格好をしていました。そして全員が顔に火傷を負っており、誰が誰なのかも判別できないような状態でした。身元がわかるものもありません」


「死後一週間ですか」


「ええ、及川さんが誘拐されたと証言された時期と一致しているんです。それに黒ずくめの格好。聞いていた話では二人だったようですが、他に仲間がいてもおかしくありません」


「彼らが犯人だと」


「私はそう考えています」


「それで、僕を疑っているんですか? 彼から誘拐犯を退治した僕を」


「いえ、捜査は集団入水として処理されることになりました」


「そうですか」


「ただ」角刈りの刑事が少し溜めてから言った。


「私には事件の匂いがします。それにあなたからは」刑事がここで言葉を止めた。櫛森はずっと刑事を見据えていた。


「いえ、何でもありません」


「一週間も前に溺死した死体がよく見つかりましたね」


「沈んでいた一隻の漁船に引っかかっていたようです」


「魚じゃなくて死体が釣れてしまったと」刑事が頷いた。



・・・・・・



 刑事は特に目新しい情報を得られることなく櫛森邸を後にした。


「本当に良かったのでしょうか?」若い刑事が言った。


「何がだ」


「何かありそうな気がしませんか?」


「どうだろうな」二人は黙りこくったまま、赤色灯を隠したセダンで信号待ちをしていた。若い刑事は国道沿いの綺麗なマンションを見て、「いいなあ」と呟いていた。


「信号」


「あ、はい」と言って、後ろからクラクションを鳴らされる前に発進させた。


「お前は彼をどう見た?」角刈りの刑事が言った。若い刑事は唸るような声を出しながら考えた。


「そうですね、こっちの様子を見て何だか楽しんでいるようでした」


「そうか」


 角刈りの刑事は、あの男のものの見方は正しいのかもしれないと思った。隣で運転するこの男は、確かに人を見る目がない。表面的なところでしか判断できないところがあるのだ。いつか感情的になって手錠をかけるのではないかと肝を冷やす。


 角刈りの刑事が櫛森に対して思った印象は、何もないが正しかった。


 彼からは、彼という人間像すら感じさせなかった。腹の底が見えない。隣の男はきっと気づいていない。あの挑発もわざとやっている。ステレオタイプな非協力的でちょっとインテリな感じを演出していたのだ。警察には協力したい気持ちはあるが、あいにく覚えていないので協力はできない。しかし、物腰が激しくなることも、こちらを嘲笑したいわけでもない。扱いの難しい男だった。


 そういう人間はいないわけではない。警察にとって自分がキーになっていることをどこかで認識し、それを愉快に思う連中も見てきた。しかし、そういう人間の腹づもりは見えるものだった。彼にはそれを感じなかった。隠すのが上手い。隠すのが上手い人間なんて、大抵どんな人間か想像がつくものだ。


「あれはとんでもなく悪い男なのかもしれない」


 刑事は独り呟いた。



・・・・・・



 刑事が帰った後、櫛森とマイルズは二人でウィスキーを生で飲んでいた。マイルズは鼻を赤くしながら、櫛森に訊ねた。


「どうして警察にあんな態度を」


 櫛森は言った。


「警察は嫌いなんだ」

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