着せ替え人形の過去

 私も似たようなものなの。主人様と出会った時、私も死にかけてたの。


 私の『 i 』は知っているでしょう? 主人様のおかげで今は制御できるようになったけど、お風呂に入るたびに髪色が変わるから、不良娘なんて思われてた。


 カラー剤で黒に染めようとしたこともあったけど、あれって一度すすぎ洗いしなくちゃいけないでしょ。せっかく染めても色が変わっちゃうから何にも意味がないの。


 親は自分たちに隠れて染めていると思ってたし、学校では友達なんていなかったし、先生には毎日呼び出された。そのうち校長室に親と一緒に呼び出されたりして、こっぴどく叱られた。


 それ以外は優等生だったと思うの。耳を開けることはなかったし化粧もしなかったし、スカートの丈は普通だし。でもね、どれだけ成績が良くても、授業態度が良くても、ボランティアに参加して花瓶の水を替えるようなことをしても、結局1番目立つところしか見てくれないの。どれだけ踵を綺麗にしていても、そんなの誰も見てくれない。


 でもそれってしょうがないことだと思わない? 私だってそう思うもの。酔ったサラリーマンの昼間の仕事ぶりなんて想像できないし、暴力ばかり振るう男の優しさだって想像できない。悪いところは良いところを隠してしまうものよ。


 それでもね、あの頃の私にはどうすることもできなかった。それでね、私も限界が来たの。それで家出した。


 外に出るとね、結構声をかけられるの。学校では女の子から、他では男の子から。大体みんなおんなじよ。派手な格好に、一週間で使い切るんじゃないかってくらいの香水をつけて、おしゃべりな子たち。いつもはカラフルな小蝿みたいに見えて嫌だったんだけど、お友達もいないしお金もないから泊まれるところがなくて、声をかけてきた男の子について行ったの。


 ゲームセンターに行ったりカラオケに行ったり、ファミレスだったけど食事も奢ってくれて、最後にはその人と寝たわ。


 私ね、その頃には人形化が進んじゃってて、いろんなことが鈍くなってたの。頭も回らなくなってきて、体も心も何も感じなくなってきた。その人と寝ても何も感じなかったわ。痛くもなかったし、傷つきもしなかった。


 それからはいろんな家と男を盥回たわいまわしにして生活してた。優しい人もいたし怖い人もいたし、可笑しなことを求める人もいた。避妊しない人もいたり、やるだけやって何もくれない人もいたし、ただ話を聞いただけですごい金額をくれた人もいた。朝起きたら求められて、昼に追い出されて、夜になってまた求められるの。


 でもその日を生きることに何の苦痛もなかったわ。だって何も感じなかったから。日めくりカレンダーを一枚ずつ剥いで捨てるような、そんな毎日だった。


 でも私ね、どんどんボロボロになっていった。


 彼女は泣きながらも語り続けた。

 ヴァネッサさんにも目に涙が溜まっていく。


 薬を使ってね、やろうっていう人がいたの。その頃にはもう、首を縦に振るくらいのことしかできなかった。何も考えずに手を出そうとしたら、急に、涙が止まらなくなって。まぶた痙攣けいれんして何だか気持ち悪くなって、寒気もして、その場で吐いたらすごく怒られた。それで家を追い出された。


 渋谷を歩いてたら、また気持ち悪くなって歩道で吐いた。みんな私を中心に円を書くように歩いて行った。そこで主人様と出会った。


 主人様はただじっと私を見下ろした。それだけだった。だから、この人は珍しいもの見たさで、結局何もしてくれないんだと思った。だから私、立ち上がってまた歩いて行こうとした。そうしたら、主人様の脇を通り過ぎた頃に、主人様が私に声をかけた。


「それでいいのか?」私は振り返りました。

「君は今、自分に置かれたすべての状況から逆転する絶好の期のなかにいるんだよ」


 そんな小難しいこと言われてもって、最初は思ったわ。だって全然何も考えられなくなってたし、渋谷を歩いて声をかけられるなんて、ああ、この人が今度の相手なのかくらいにしか思えなかった。私はいつもの口癖みたいに言ったわ。


「食事と宿、それか、いくらか援助をお願いできませんか。お礼ならできます」少し胸を強調する仕草も、私は何も考えなくてもやっていました。

「他には?」


 この人は、何だか違うと思ったの。いつもならすぐにの肩を抱かれて歩き出すのにって。自慢話をされて、相槌を求められて、共感を求められる。時には慰めだって。でもあの方は、凛とした佇まいで自分を偽らずそこにいて、誰からも何も求めなくとも自分を確立していた。私とっても羨ましかった。そんな姿を目の前で見せつけられたら、なんだかとっても惨めな気持ちになって、泣き崩れて、気づいたらひざまづいて主人様に縋りつきました。


「助けてください」


 ただただ泣き続ける私を、主人様はそっと抱いてくださいました。


 後で分かったことでしたけど、あの時妊娠していたんです。その初期兆候が出ていたみたい。主人様は堕ろす時も費用も出してくれて、産婦人科に付き添ってくれました。


「千鶴さんが来れれば良かったんだけど」と言いながらも、私についてきてくださいました。嫌な思いをさせてしまいました。他の方から見れば、「ああ、あの人が」と。


 それから私が『 i 』の持ち主で、それが着せ替え人形をモチーフにしていたりと、色々なことを教えていただけました。力の扱い方や制御の仕方、そのための処置など、色々。


 状況が落ち着いた頃に、主人様に謝ったんです。


「申し訳ございませんでした」 


「立花」首を垂れる私に主人様は声をかけました。そして頭を上げるように言いました。


「君がこれからも人として生きていきたいのなら、人に迷惑をかけなくちゃいけない。それが人として生きるということだよ」


「ですが私は、なるべく人の迷惑にならないように生きたいと考えています。少なくとも私は、そうすることが良いと育てられてきました」


「そんなことは無理だよ」 私はただ黙って耳を傾けました。


「そういうことを言う連中というのはね、自分が危機的状況に陥ったことがない奴だ。そんなものは妄言だ。要は頭の中がお花畑な奴らだよ」


「そうなのでしょうか?」


「もちろん、迷惑をかけすぎるのも問題だし、程度にもよる。時と場合によるよ。でもね」


 主人様は言葉を続けました。


「迷惑くらいかけても良いじゃないか」


「それは、主人様だからこそ言えることではないでしょうか?」主人様は笑って、そうかもしれないと言いました。


「でもね、すぐに助けを求めていればどうにかできていた問題が、ぐずぐずしている内にどうにかできるラインを通り過ぎてしまうかもしれない。最悪な状況になってからすまながったって仕方がないだろ。だから、迷惑をかけれる時に迷惑をかけるのが良いんだよ」


 主人様の寛大なお言葉は、今も私の胸にあります。



・・・・・・



「ねえヴァネッサさん」橘さんが言った。


「『助けてもらってしまった』なんて私たちに言ってはいけないわ。ねえ及川さん」橘さんは涙を溜めた目を僕の方に向けた。


「もちろんです。ヴァネッサさんとは今日初めてお会いしましたが、僕にできることなら何でもします。僕も、櫛森さんに助けられた一人です」橘さんはにっこりと微笑んだ。


「それにね、主人様は応援してくださると仰っているわ」


「でも、このホテルがどうなろうとどうでもいいって。それに、できるできないは私の問題で、私は……できなかった」橘さんはヴァネッサさんの手に自分の手を添えた。


「主人様が何かに興味を持つだなんてそうそうないことよ。それに、ホテルには興味がないだけで、ヴァネッサさんがとは言っていない。それに主人様は仰ったわ、できるだけのことはしてきたと。それは過去に限定した話ではないわ。慈悲深い方ですもの」


 橘さんの話は終わった。


 ヴァネッサさんは橘さんの話を吟味するように、目を落として一点を見つめていた。その頃には太陽が静まり返り、夜の訪れを予感させていた。外にある街灯や家屋に灯りがついていく。風も少し冷たくなったのを感じて、窓を閉めた。


「私ね」ヴァネッサさんが話し始めた。


「立花ちゃんみたいに強くないの。それに、私はそうそうすぐに変われるタイプの人間じゃない。だから、やっぱり助けてとは言えない」橘さんは自分の思いが届かなかったとは思わなかった。彼女はそれでも良いと言った感じでただ頷いた。


「でもねありがとう立花ちゃん。私、自分がやれることが分かった気がする」


 ヴァネッサさんと橘さんは抱き合った。二人が溜めていた涙は、抱き合うことで流れ出した。

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