着せ替え人形/異世界
「何しに来たんだ?」
一週間ぶりに訪れた櫛森邸は、彼の毒舌から何から変化は見受けられなかった。生けられた花の花弁の角度や、室内温度の変化まで、以前来た時となんら変化を感じられない。まるでミリ単位で屋敷の隅々が調整されているかのようだった。
唯一の変化といえば、橘さんにあった。
以前の給仕服──あれはメイド服ではないのだ──とは違い、大正浪漫の看板娘みたいな格好をした彼女と屋敷の外ですれ違った。髪色も金髪ではなく黒髪になっており、三つ編みをアレンジさせた髪型をしていた。
「もうお帰りですか?」とすれ違いざまに訊いた。
「千鶴さんに頼まれてお使いに行くんです」
「今日も素敵な格好ですね」
「ありがとうございます」
彼女は気恥ずかしそうに言って、少し頭を下げて歩いていった。そうやって見送った橘さんは、秋の典型的な気まぐれによって、雨に降られて帰ってきた。
「シャワーを浴びてきなさい」
「かしこまりました」
橘さんは買い物の品を千鶴さんに渡し、廊下をさらに奥に行ったところにあるお風呂場まで行った。
「で、君は本当に何しに来たんだ? 用はないぞ」櫛森は湯呑みに入った茶を飲んだ。千鶴さんは僕の分もお茶を用意してくれ、ぬれ煎餅と僕が手土産として持ってきた饅頭も机に置いた。
「異世界に行けませんか?」
「千鶴さん、この奴隷は一体何を言っているんだ?」
「少々お疲れなのではないでしょうか?」
「ああ、あれから会社はどうなんだ?」
「思いの外何もないです」
「それは良かった」
僕の家の玄関ドアが新品になってから初めて出勤日、つまり『 i 』を無くしてからの初出勤は、色眼鏡で見られたり白い目で見られたりなど、様々な反応があった。
あの上司は口が軽いのだろう。誘拐されたということは残念ながら全ての人の正しく伝わっておらず、万引きして警察に連行されただの。殺人事件に巻き込まれただの投資トラブルに遭っただの、噂は様々だった。初日こそ居心地の悪さがあったものの、同僚たちや上司の反応はだんだん好意的なものになっていった。
「顔色が良くなったか?」
「雰囲気変わったね」
「彼女でもできたか」
以前の僕はどういった奴だったのだろうと思ったが、聞く気にはなれなかった。『 i 』をなくした僕があの頃に戻ることはなく、僕が僕のままでやっていけるのだと、少し自信が沸いた一週間であった。ひとまずはそれで良いと思った。
会社での顕著に現れた変化について話すと、 櫛森はただ「それは良かった」としか言わなかった。
「それで、異世界がなんだって?」
「そうです。さっきも話したように、僕は会社でも問題なく過ごせるようになりました。久しぶりに家以外の時間を過ごして、なんだか充実している気がします。そんな僕の目下重大な問題はなんだと思いますか?」
「僕への借金返済」
「それです。今の僕の生活はかなり質素です。せっかく充実し始めた僕の生活が櫛森さんへの借金で脅かされています」
「その充実さは僕が君の『 i 』を取り上げたことによるものだろ。贅沢な奴だな君は」彼はテレビのリモコンを手に取ってテレビをつけ、次々にチャンネルを変えていった。
「もちろん感謝しているんです。だからこそ僕は櫛森さんへの借金を返したい。それにこうして手土産として饅頭も持ってきたんです」
「恩着せがましいな君は」情報番組や旅番組、バラエティ番組が付いては消えてを繰り返して、最終的に駅伝で固定された。
「借金返済のためにも、異世界に行くことが必要なんです。櫛森さんなら異世界くらい行けそうじゃないですか」
「まあ、行けるけど」
「本当ですか?」
「異世界に行って何をするんだ?」
「現実世界のノウハウを使ってなんだかんだで無双していきます」
「見通しが甘すぎる。──さすがの僕でも、君の『楽したい』という気持ちまでは取り上げられなかったか」
「まあまあ、まだお若いんですから」と千鶴さんが言った。
「そういえば、ヴァネッサが異世界に行ってもうじき一年になるか」と櫛森が言った。
「誰ですか?」
「昔屋敷に置いていた女中だ」と言ったあたりで、橘さんがお風呂から上がってきた。
「主様、お風呂をいただきありがとうございました」
「さっぱりしたかい?」
「はい」
僕は橘さんを見ても一瞬誰だか分からなかった。僕が屋敷の外ですれ違った橘さんは黒髪をしていたが、この時の橘さんは発色の良い赤い髪をしていた。僕が不思議そうな顔をして橘さんを見ていると、彼女はまだ乾き切っていない髪に触れて、得心がいった顔をした。
「私、お湯に浸かると髪色が変わるんです」と言った。
「どういうことですか?」
「そういう体質と言いますか……。私、着せ替え人形の『 i 』を持っているんです」
「お湯に浸かる度に変わるんですか?」
「そうなんです」
「便利なのか不便なのかわかりませんね」
「そうですね。昔はコントロールができずに困っていたんですけれど、そんな時に
彼女は着る服や髪色によって顔の発色やパーツの若干の変化も可能なのだと櫛森は言った。どんな服でも100%着こなせ、服を着て似合わないというのが彼女にとってはあり得ないのだと。
また、彼女の『 i 』は自動で発動してしまうタイプで、本人の意思とは無関係に働いてしまうらしい。
「それって危険なんじゃないですか? 人形をモチーフにした『 i 』は、確か使うごとに人形に近づいていくって」
「彼女の場合は例外なんだ」と櫛森が言った。「立花の場合は、自発的に使うことが大事になる」
「どういうことですか?」
「着せ替え人形はどうやって遊ぶものだ?」
「……いろんな洋服を着せ替えるんですよね」櫛森は頷いた。
「人形化現象は、その人形本来のあり方に反発することで防ぐことができる。立花の場合は、ある程度自分で力を使う必要がある。だからダダ漏れになっている力に意志を与えられるようにしたんだ」
「意志ですか?」
「スイッチみたいなものだよ。でも、もちろん『 i 』の使い過ぎもいけない」
「私だけではそのバランスが難しくて。それで屋敷で主人様のお世話を仰せつかりながら、助言をいただいているんです」と橘さんは言った。彼女は彼女で苦労をしていたのだ。
「でも、最近は自分でも加減が分かってきたんじゃないのか?」
橘さんは首を振り振りして「まだまだです」と言った。
・・・・・・
「そういえば、先ほどヴァネッサさんについてお話されていましたか?」橘さんは櫛森邸での自分の仕事を終え、ぬれ煎餅と饅頭どちらを食べるか迷いながら僕らに訊いた。
「橘さんもご存知なんですか?」
彼女は頷いた。「私と同時期に主人様にお世話になったんです。仲良くさせていただきました」
「もうすぐ異界に行って一年が経つころだからね」と櫛森が言った。
「ヴァネッサさんも、『 i 』の持ち主なんですか?」
「彼女はバネ式人形の『 i 』を持っているんだ」と櫛森は言った。
すると、座ってお茶を飲んでいた千鶴さんが玄関の方まで歩いていった。戻ってきた彼女は一通の手紙を持っていた。
「旦那様、そのヴァネッサさんからお手紙が届きましたよ」と言って櫛森に渡した。櫛森はデスクの方へ行き、抽斗からレターオープナーを取り出した。水晶を削って刃物にしたような、美しい形状をしていた。彼は中から手紙を取り出すと、椅子に座らず立ったまま読み始めた。駅伝はすでに全出場者が走り終え、ハイライトを映していた。
「もしかして、今きたばかりの手紙なんですか?」
「そうですよ」
「よく分かりましたね」
「ここは私のお屋敷ですから」と話していると、櫛森がこちらの方へ戻ってきた。
「異世界に行きたいのか?」と僕に訊いた。
「……はい」
「連れていってもいいぞ」
「本当ですか?」
「ついでだしね」
「ヴァネッサさんに何かあったのですか?」
櫛森は橘さんに手紙を渡した。僕と千鶴さんも傍から覗き見た。
──申し訳ございません。もう無理かもしれません──とそこには書かれていた。
「私も行きます」と橘さんは言った。 櫛森と橘さん、そして僕とで異世界に行き、ヴァネッサさんの様子を見にいくことになった。
「千鶴さんは行かないんですか?」
「私はお夕飯を支度をしておりますので、それまでにはお帰りになってくださいね」
三人は玄関から自分の靴を取りに行き、それから引き返した。
「どうやって行くんですか?」
「ついくれてば分かる」
櫛森は庭に面した方の廊下の奥へ歩いていき、10畳くらいの何も置かれていない和室の中へ入った。橘さんもそれについていき、僕もついていった。櫛森が襖を開けると、そこには光を感じない黒い空間が広がっていた。
「なんですかこれ?」
「ここから異世界に行くんだ」
「できれば光に包まれたりして行きたいんですけれど」
「奴隷のくせに君はわがままだな。置いていくぞ」
櫛森は我関せずといった態度で履き物を履き、暗闇の中へ歩いて言った。橘さんもそれに続き、僕も足を踏み入れた。櫛森を先頭に歩き続けていると、途中で後ろを振り返って言った。
「襖を開けっぱなしにするな」
僕は踵を返して襖を閉めに行くと、前の二人は僕を待つことなく先へ歩き続けていた。
こうして僕らは異世界に行くことになった。
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