櫛森邸にて

「申し訳ございません」


 品のある老齢な女性が頭を下げた。彼女は櫛森葛流くしもりくずるの膝丈くらいの身長しかなく、頭を下げると背中側の帯締めまで見えそうだった。


「物取りにございます」

「留守中を狙われたか」櫛森は一人ぼやいて額をかいた。

「で、何が取られた?」彼女は顔を上げた。


「類稀なる『 i 』でございます」


 櫛森の眼光が鋭くなるのを感じた。しかし、彼は自分を律するのが上手い男だった。


「ところで旦那様、そちらの方は、例の……」彼女の方も、機転の効かせ方は上手だった。

「そう、今日買った奴隷」


 櫛森は溜息混じりに答えた。溜息と一緒に、多少の苛立ちは大気と混じり合った。


「及川誠一と言います」僕が頭を下げると、彼女の方もまた頭を下げた。

千鶴ちづると申します。この屋敷の管理、旦那様の身辺のお世話などを仰せつかっております」


 櫛森は履物を脱いで玄関を上った。羽織を千鶴が受け取る姿は、演習で披露する集団行動のように、計算され尽くした動きに見えた。


「犬小屋とかあったっけ?」衣紋掛けに羽織をかける千鶴は、よく分からないといった顔をした。

「犬小屋でございますか? 失礼ながら、旦那様は犬を飼われておりませんので……今からでも用意いたしますか?」


「いや、いいんだ。それより立花はいるかな、紹介しておこうと思って」

「アイロン掛けの最中ですが、お呼びしますか?」

「いつまで玄関に居させるつもりだい」ふたりのジョークは分かりづらく、どちらも笑みを湛えている。


 櫛森は廊下の奥へ歩き始めた。「何してる? 君を紹介するのに君が来ないんじゃ話にならないだろ」


 僕は玄関を上った。


 玄関がその家の顔になるのなら、贅をかけた玄関は若干肥えて丸々した顔の坊ちゃんが浮かびそうなものだが、この屋敷は違った。あるのは、不思議と精悍さだった。それだけで、この屋敷は人を招くようには作られていないのだと分かった。


 しかし、装飾は見事なもので、芸術品として価値のありそうな欄間らんまがあったり、玄関タイルは翡翠の原石を加工して作られたものだったりと、趣向を凝らされている。


 玄関を入って右側には、マーガレット・サッチャーを映すために作られたような姿見に、与謝野晶子が茶でも飲んでいそうな長椅子がある。シノワズリとジャポニズムを控えめに表現しているみたいだった。


 そして、真ん中にある大きな鉱物。8畳ほどある玄関の真ん中に位置し、ゴツゴツとした鼠色の岩肌に黄金が混じっていた。触れたくなるテクスチャーだが、我慢して櫛森の後を追った。

 左に見えたクロークルームを通り過ぎ、中庭に面している窓から瀟洒しょうしゃ四阿あずまやを見て、櫛森がいる部屋まで追いついた。


 中に入ると、部屋はさらにふたつに分かれていた。


 入って手前にはダイニングがあり、食卓に椅子が4つ並んでいる。玄関の方が広いかもしれない。


 奥には書斎があった。


 デスクには書類の山ができ、散乱していた。他の箇所が片付いているのを見ると、手をつけないように言い付けてあるのだろう。テレビがあり、応接セットもある。四隅には本棚があり、まるで誰かが諦めば全て丸く収まりそうな人間相関図のように、それぞれが向かい合わないように配置されていた。


「なんだか普通ですね」と僕は言った。

「もっとおっかないところだと思ってました」

「例えば?」

「鬼の生首とか」

「君は鬼の生首を見ながら生活できるのか」


 橘立花は庭に面した廊下でアイロンをかけていた。毛先の方がウェーブがかった長髪を金髪にしていたが、艶のある美しい髪をしている。そしてなぜだかメイド服を着ている。橘立花は足音に気づいて振り返った。


「お帰りなさいませ。ご主人さま」あまり表情を表に出さない、控えめな声でそういった。この家では何もかもが控えめなように思えた。櫛森は僕を新しい奴隷だと紹介した。


「及川誠一です」

橘立花たちばなりっかです」彼女の声が先ほどよりも消え入りそうな声をしていた。人見知りなのか、奴隷に対してあまり良いイメージを持っていないのか。


「メイド服ですか?」僕はコミュニケーションを図るためにも、まず触れずにはいられない服装について触れた。

「給仕服です」橘さんは言った。


「え」


「メイド服はメイド喫茶を連想してしまうので、あまり好きではありません。給仕服です」

「なるほど」確かにメイド喫茶のメイド服よりも、フリルはあまり使われていないように見えた。もっと言えば、萌えが足りていなかった。


 橘さんは櫛森に声をかける。


「そこな奴隷は本日お泊まりに?」

「そうなんだよ、彼家の玄関ドア破壊されて拉致られて、お金もないもんだから家まで帰り着けなくて、子犬みたいにブルブル震えてるからね、僕が連れて帰ってきたんだよ」

「旦那様はいつだって慈悲深くお優しい方です」

「本当は犬小屋も用意してあげたかったんだけど」と言って楽しそうに僕の方を見た。とても楽しそうだった。


「旦那様、そろそろ」千鶴さんが言った。

「仕方ない、レイを呼ぼう」


 櫛森はスマートフォンを取り出して電話をかけた。橘さんは再びアイロン掛けに静かに戻り、千鶴さんも自分の仕事へ戻っていった。奴隷の僕は手持ち無沙汰だった。僕は千鶴さんに声をかける。


「あの、何かできることはありますか?」

「旦那様からはなんと?」

 僕は彼が出した最初の命令を思い出した。



・・・・・・



「車の免許をとれ」バイクの免許しか持っていないことを言うと、櫛森は僕にそう言った。

「でも車を買うお金なんてありません」

「僕が立て替えるよ。借金に追加してやるのは勘弁してあげる」


 彼はまるで僕に借金があるように言ったが、僕はどれだけ生活を送っていても、消費者金融にはお世話にならなかった人間だ。


「僕に借金なんてありませんよ」

「まさか、あれだけのことをしてもらってフリー無料だなんて考えてないよね」

「いやでも、お金の話なんてしてなかったですよね」


 櫛森はふたつあるA4の茶封筒の内のひとつから書類の束を取り出し、僕に見せた。


「君はあれだな、契約書をちゃんと読まないタイプだろ」


 僕は契約書の上方に書かれている書類の概要を読んだ。この時点で僕は1億円の借金をしていた。


「ちゃんと君が払い切れる現実的な値段にしてあげたんだから」と櫛森は言った。

「こんな阿漕あこぎな商売してるんですか」

「阿漕とは何だ。定価だと何倍もするんだぞ」



・・・・・・



 ひとまず教習所へ申し込みに行った方がいいのではと考えていると、櫛森邸に訪問者が来た。もう来たのかと櫛森が言うあたり、先ほど連絡すると言っていた"レイ"という人なのだろう。千鶴さんが出迎え、こちらの方にやってきた。


「レイ・ドナント。彼もまた専門家だ」


 短く刈り込んだ髪をなでつけ、目鼻がくっきりした英国紳士だった。


「随分早かったね」と櫛森が言った。

「奴隷買ういうからな、どないなん買ったんか見ようおもて、そこまで来ててん」関西弁のこれはレイ・ドナントである。


 彼は日本のアニメが好きで日本語を覚えたようだった。たまたま好きなキャラクターが妙な関西弁を喋り、そのキャラクターを参考にしてしまったがためにこんなことになったらしい。


「昔は一人称が拙者だったんだ」と櫛森が言った。せめて一人称は私か僕か俺にしろと櫛森に言われ、彼は俺を選んだ。これもアニメキャラに多い一人称だからという理由だった。しかし彼の「俺」の発音は、まるでサンバの「Ole!」みたいで、「お」の音が上がるのだ。


「Oleはレイ・ドナントや。よろしゅうな」

「及川誠一です」


 櫛森はパンッと一発手を叩いた。


「色々あるが、まずは飯だ」

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