サンタさんはいない

「『 i 』には色んなテーマやモチーフがある」と櫛森が言った。


「オートマタは人形だ。人形をモチーフにした『 i 』は、使うごとに無気力になっていく」


 僕は彼の正面にまた腰を下ろした。


「本物の人形に近づいていくということですか?」


「やっと頭が回るようになったね」


 それから肩や腕、背中に手を当て、体の感触を確かめてみた。肌の弾力が感じられず、手のひらを見ると手相も薄くなっているように思える。


「どうして気づかなかったんでしょう?」


「単純な話で、見慣れていないからさ。僕みたいなその界隈の人間なら一目見て分かるけれど、大衆はそうじゃない。ただ、分からなくても感じる人はいるんじゃないのかな。実際、今日女の子に振られて傷心中だろ。『 i 』を使うごとに、人間関係も疎遠になっていったはずだ」


 言われてみればそうかもしれない。友人たちは一人、また一人と連絡がつかなくなっていった。僕を振ったあの子も、「あなたってなんだか軽薄なのよね」と言っていた。


 案山子のような人生。貰い物の人生を送ってきた僕には、ぴったりな言葉だと思った。あの子も、僕の軽薄さ、人形になりつつある不気味さを感じのかもしれない。


「その界隈というのは?」


「オカルトとか超常とか、怪異とか妖とか、まあそういう類の専門家みたいなものかな」


「櫛森さんはなんの専門家なんですか?」


「僕は人形を専門にする、人形遣いだ」


「人形遣いですか?」櫛森が頷いた。


「だから、君を買ったのもそのためだ」


 そう言って、櫛森は封筒を取り出し、中から一枚の紙を取り出した。中にはよく分からない奇奇怪々ききかいかいなものが五つ並んでいて、その中には僕がいた。


 五つの品にはそれぞれ名称があり、僕のところにはしっかり『奴隷』と記されている。写真は街中で撮られたもので、おそらく通勤中か何かだろう。よれたスーツを着て、俯き加減に写真に映る僕の姿があった。


「この写真を見て、一目で君の『 i 』に気が付いたんだ。釣り合わない人間に渡った『 i 』を回収するのも、僕らの仕事なんだ」と櫛森は言う。


 櫛森曰く、僕はこのままでは本当に自動人形オートマタになってしまうらしい。しかし、『 i 』とは決して悪いものではないということだった。使い方を間違わなければ、『 i 』はその人の人生を豊かにする加護になるのだと。


「人によりけりさ」と櫛森は言った。


「君は中毒状態になっている。これを僕らは"i holicアイホリック"と呼んでいるんだけど、まさに今の君だ」


 確かに自覚はあった、もう何をやるのも楽をしようと頭から考えてしまう。


 仕事だって、自分のデスクの場所もやる仕事も会社での交友関係も知っている。


 取った資格の内容も、二日酔いの最悪な気分も、女の子の抱きかただって知っている。しかし、自動で過ぎていった僕の経験を、いまさら体験しようと思うだろうか。


 絶対に思わない。


 僕はまた楽をする。


 楽できると知っているのに、わざわざ苦労する道を僕は選べない。茨の道を選べるチャレンジングな人間なら、僕はそもそもこの『 i 』を使わず生きていけたはずなのだ。


「で、話を戻すけれど、君はどうしたい?」櫛森が訊いた。


「さっきも言ったけど、僕は君の『 i 』を取り上げることができる。アル中からは酒を取り上げればいい、愛煙家からは煙草を、麻薬常習者からは麻薬を、i holicからは『 i 』を。それで、大抵のことは解決するんだ」


 僕は考えてみた。これからについて。人形になりつつあるということについて、死ぬことについて、まっさらで生きていくことについて。


「しょうじき、正直怖いんです。いまさら社会に溶け込めるのか。人が苦労してやることを、僕は楽してオートモードで生きてきたんです。櫛森さんの仰る通りです。僕は経験はしたが体験はしていない。何もやってこなかった赤ん坊みたいな奴です。明るい外を向いているフリをして、暗い内に篭り続けて引き篭ってきたんです」


 震える声をなんとか真っ直ぐ出そうとした。それでも声は少し震えた。こんな惨めに情けなく自分の感情を吐露をする羽目になるとは思わなかった。


 声に出してみることによって何かが発散されたのかも、いまいち分からなかった。


「スティーブン・キングって知ってる?」と櫛森が訊いた。一体なぜホラー界の巨匠が出てくるのだろう。


「スタンド・バイミーとか、シャイニングとかのですか?」


「そうそう。それこそシャイニングを書いていた頃はアル中で、その十年後にはドラッグにも手を出していた。嫁も子供もいる中、彼は死にかけているのにやめられなかった。嫁さんはキングに選択を迫った。リハビリを受けるか、家を出ていくか。キングは結論を出すのに二週間の猶予をもらった。後にその時のことを、彼はこう例えている」


 ──男は炎上する建物の屋上にいる。そこへヘリコプターがやってきて、縄梯子が降ろされる。救助隊員がヘリコプターから身を乗り出して叫ぶ。「早く上がってこい!」屋上の男は答える。「二週間、考えさせてくれ」──


 そして櫛森は言った。


「君は屋上の男、僕は救助隊員」


 彼が言わんとしていることを分からないほど、僕はボケっと生きてきたわけではない。


 なぜだかは分からないけれど、櫛森は僕を救ってくれようとしているのが伝わった。


 応えることができればどれほど良いだろうと、そう思えるくらいには、彼に対して少なからず好感を持つようになっていた。しかし、期待に応えられるかどうかはまた別問題だ。期待に応えるなんて、僕は経験も体験もしていない。


「どうなんですかね。僕は今日死のうとしてたんです。仕事とか人間関係とか、面倒なことだけじゃない、人生そのものに対して『 i 』を使おうとしたんです。自分から火の中に飛び込もうとしてたんです」


 しばらくは彼も僕も何も言わなかった。僕からは言えることは、もうないように思えた。


 沈黙は煙となって、部屋全体に猛然と広がっていく。今すぐこの場から立ち去りたかった。非常口を見つけて、非常階段から一目散に階段を降りて、ここが何階であろうと走り続けられそうだった。足を踏み外す恐怖にも、激しく打つ鼓動にも、今なら耐えられそうだった。


 重く息苦しいのは、沈黙も火煙も同じだ。


「それでも君は、屋上に辿り着いたんだよ」櫛森が言った。


「まあ色々言ったけどさ、君に拒否権なんてないから」


「え?」


「そりゃそうだよ。だって君奴隷だよ。僕に買われたんだから」


「この話はなんだったんですか?」


「ダビー(スティーブン・キングの奥さんの名前)と一緒さ、僕も君に選択を与えただけだ。これでも優しい買主であろうと心がけているんだよ」


 蔓延した沈黙は一瞬にして霧散した。煙とは上昇する軽いものだったのだと思い出した。


「僕はあなたは奴隷になったことにまだ納得していません。書類だって、今からサインするんですよね。僕がそれを拒めば、僕はあなたの奴隷にならずに済む」


 櫛森は溜息をついて、入り口にいる男からA4の茶封筒を受け取った。封筒から書類をいくらか取り出し、僕に渡した。


「もうサインはしているよ。君自身でしっかり」


 確かにそこには僕の字で僕の名前が記されていた。


 ── 及川誠一 ──。


「こんなのサインした覚えはありません」


「オークションが始まる前にしたんだろう」


 僕は意識のない内に得体の知れない書類にサインしていたのだ。書類を見ると、主に人権剥奪に関するものや、競売にかける許諾書、今後あらゆる出来事に当組織は一切の責任を負わない。などというものだった。


「こんなの無効だ!」


「無効になるかな?」櫛森が入り口で立つ男に言った。


「なりません」にべもなかった。


「じゃあ、さっき書けと言ったのはなんですか?」


「あれはもっと個人的なものさ」


 櫛森は出した書類をまた封筒に締まって、もういらないとばかりに机に放った。放られた封筒は、バーテンダーがグラスを滑らすように綺麗に机にとどまった。


「確かに君に人権はないけど、僕は奴隷としての君に興味があるわけじゃない。君が人形をモチーフにする『 i 』を持っているから、それに興味を持って買ったんだ。君自身に興味があるわけじゃない。思い上がりも大概にしろ」


 櫛森の辞書には『言うに事欠く』という言葉が完全に欠落している。心優しい買主にはほど遠いなと、僕は思った。櫛森はさらに口火を切った。


「さっきも言ったけど、僕に買われたことは、君にとって悪いことじゃないと思う。君も、ちゃんと大人になる時が来たんだ」


「大人にですか?」


 今更自分が大人であると主張するつもりはない。大人なんて一体なんなのか、大人だってよく分からないのだ。


「サンタさんはいないんだよ」


 僕もまた、クリスマスプレゼントは親がくれているんだと吹聴して回っていたあの子のように、蒙昧な非現実を、非現実として終わらせる時が来たのだ。



・・・・・・


 僕はキングサイズのだだっ広いベッドに寝かされ、櫛森による処置が行われた。


 処置はあっという間に終わった。


 櫛森のひんやりとし手を額に感じると、何かを吸われたような気怠さを感じた。実際に僕は力を、『 i 』を吸われた。彼が吸い取った『 i 』は、サンタクロースがくれた淡く輝く光の球体ではなかった。濃いドロリとした血を固めたような、そんなものが櫛森の手のひらに乗っていた。


「使い方を間違えた『 i 』は、こういう風になるんだ」と櫛森は言った。


「加護にもなり得るし、呪いにもなり得る。使い方を間違えたのは君の責任だ」


 そこまで言われると、僕は笑うしかなかった。体は重りを括って海に身を投げるように、ベッドに深く沈み込んでいく。眠りなさいと櫛森は言った。それで良くなるからと。


「上がってこられそうか?」


 僕は応えた。


「梯子に足を掛けました」



・・・・・・



 目が覚めた頃、街は夕闇迫る黄昏時だった。櫛森と僕は一般客としてホテルを後にした。


 僕は初めて『 i 』を使った時のことを思い出していた。あの時も、こんな景色を見たような気がしたからだ。何度も見たことのある夕暮れの景色は、今日久しく、僕に1日の終わりを告げようとしていた。


 久しぶりだった。


 1日なんて、ほとんど知らない間に終わっていたのだから。


「気持ちがいいものですね」と言って僕は伸びをした。


「まあ、君は今日もほとんど寝ていただけなんだけどね」あの後5時間眠りこけた僕に櫛森が言ったが、僕は無視した。


「ところで、ずっと入り口に立っていたあの人は誰ですか?」


 櫛森は足を止め、信じられないとでも言いたげな感じで僕を見た。


「官房長官だよ」


 どうりで見たことがあるような気がしたのだ。


「なぜ官房長官が?」


 櫛森はまた歩き出した。


「それだけ、あのオークションはお国にとって大事だってことだよ」


「随分若いんですね」


「実務能力は政治家内じゃトップレベルじゃないかな。ああ見えて人の機微にも目敏いし、次の総裁選ではかなり注目されると思う」


 へえ、と僕は言った。官房長官に対して随分フランクに接していたこの男は何者なのだろう。誰もが彼に頭を下げていた。ホテルを後にする際だって、胸元に支配人と書かれた名札をした男が、櫛森に頭を下げにやってきた。いくらホテルの客といえども、そこまでするだろうか。年齢だって、決して老齢というわけじゃない。もっと若い年端のはずだ。


「……ところで、僕はこれからどうなるんでしょう?」


「……どうって?」


「僕は櫛森さんの奴隷なんですよね。住み込みになるんですか?」


「え、嫌だよ。なんで野郎とひとつ屋根の下で暮らさなくちゃいけないんだよ」


「じゃあ、普通に帰っていいんですか?」


「別にいいけど」


「逃げ出すかもしれませんよ」


「しないよ」


 櫛森は言い切った。


 僕は理由を訊いた。


「サンタクロースの仕事を知らないのかい」

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