第86話 逃がしはしませんよ?
夜明け前。
まだ街が深い眠りに沈んだこの時間に、とある新興商会の本部建物の中を、息を殺して進む人影があった。
「(今日こそこの商会の秘密を突き止めてみせる。そのために私はこの商会に潜入して、今までごく普通の従業員のように振舞ってきたのだ)」
まだ若い男だ。
数か月前からこの商会で働き始め、その真面目な仕事ぶりが評価され、段々と重要な仕事を任されるようになってきていたところだった。
しかし実は、彼はこの新興商会のことをよく思わないライバル商会が送り込んだスパイだったのである。
「(朝になると、いつの間にかここの地下倉庫に食材が置かれている。だが一晩中ずっと建物を見張っていたこともあるが、中に何かが運び込まれる様子はなかった。一体どこからどうやって運び入れているのか。そしてあの食材をどうやって仕入れているのか……)」
噂では、勇者でもある商会長の能力によるものだと言われている。
確かに【商王】は、商人系の最上級ジョブだ。
だがいくら何でも、何もないところから食材を生み出すことができるはずがない。
商人である以上、どこかに仕入れ先があるのは間違いなかった。
「(その秘密が、この地下倉庫にあるはず……)」
幸い昨日は商会長とその秘書が不在だった時間に、こっそり商会長室へと忍び込み、地下倉庫の鍵の型取りに成功したのだ。
「(ん? 中から何か物音が聞こえてくる……? 誰もいないこの時間に、やはりここで何かが行われている……っ!)」
興奮を必死に抑えつつ、彼は複製したその鍵を使って静かにドアを解錠する。
そして息を殺して倉庫内を覗き込んだ。
「(だ、誰かいるぞ……? しかも複数……人間……? いや、それにしては、大き過ぎるような……)」
そこにいたのは人間ではなかった。
全身が毛に覆われた、謎の人型生物だ。
「~~~~~~~~~~~~~~っ!?」
思わず悲鳴を上げそうになったのを、どうにか堪えた。
恐らく普段はそれで隠されているのだろう、大きなコンテナが置かれている床に、大きな穴が空いていた。
謎の生き物たちはそこを出入りして、食材をこの倉庫に運び入れているらしい。
あの穴の奥はどうなっているのか。
それを確かめたかったが、さすがにこれ以上は厳しそうだ。
今日のところはいったん引き返そう。
そう思って、ドアを閉めようとしたときだった。
「ふふふ、逃がしはしませんよ?」
「ひっ!?」
背後から聞こえてきた声に、今度こそ悲鳴を漏らしてしまった。
慌てて振り返った彼が見たのは、商会長の秘書だった。
手にはナイフのようなものを持っていて、普段の彼女とは纏う気配がまるで違う。
美人秘書として知られている彼女だが、今はその笑みが恐ろしかった。
彼の直感が、凄まじい警鐘を鳴らしている。
気づいたときには懇願していた。
「ま、待ってくれっ……い、命だけはっ……どうかっ……」
「いえ、これを見られてしまったからには、無事で帰すわけにはいきません。もちろんその覚悟で、この時間に忍び込んだんですよね? いえ……従業員として潜入したのですよね?」
「~~~~っ!?」
とっくに見抜かれていたのだ。
そうと悟った彼は、戦慄のあまり腰が砕けてその場に崩れ落ちてしまう。
「怖いでしょう? でも大丈夫ですよ。一瞬で終わりますからね」
そんな声が聞こえてきたと思った次の瞬間にはもう、彼の意識はブラックアウトしていた。
「それで、どうされますか、キンノスケ様?」
気絶した男を見下ろしながら、メレンは訊ねた。
「まず間違いなく、ライバル商会が送り込んできたスパイでござろう。ここは逆に利用してやるでござるよ」
「利用、ですか?」
「こちらが意のままに操れる味方にしてから、送り返してやるでござるよ」
「なるほど。ですが、どうやって洗脳するのでございますか? 【暗殺者】のわたくしは、人を殺すのはできても、そうした技術はありませんが……」
「大丈夫、拙者に考えがあるでござるよ」
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